平成22年7月20日(火)  目次へ  前回に戻る

南宋の時代、金との和議を強力に主張し、反対する愛国者たちをヒレツな方法でこれでもかこれでもかと葬り去ったとして、シナ史上最大級の売国奴としてゲンダイに至るまで嫌悪されている太師・秦檜さま

趙景安の「雲麓漫鈔」(巻十)によれば、彼には「十客」(十人のお客人)があった、とうのでございます。

みなさんの人生行路のタメになる、かも知れませんので、「十客」というものをご紹介しておきましょう。

1.刺客(殺しに来るお客)・・・施全

施全は軍人であったが不当な和議の議論に憤慨し、

以斬馬刀鬻於街旁、俟秦輿。

斬馬刀を以て街旁に鬻ぎ、秦の輿を俟つ。

巨大な「斬馬刀」といわれる剣を行客に売る、と言うて街角に立ち、そこで秦太師の乗った御輿が来るのを待っていた。

秦一行が通りかかると、斬馬刀を揮って輿を真っ二つに斬りおとしたが、あいにくその日に限って秦は一行より後れて出邸し、後ろから騎馬で追いかけてきていたため輿に乗っていなかった。

「無念なり」

とその場で自らの咽喉を突き、息絶えた。(紹興二十年(1150)正月のことという)

2.逐客(追われたお客)・・・郭知運

郭は科挙に合格後、若手の俊英として秦太師の孫娘の婿となったひとである。最初、秦のお気に入りの婿であったが、ある年、秦は特別に誂えさせた刀剣を子や婿たちに分け与えたことがあった。そして、

一日宴集、皆佩之、而郭已遣人矣。

一日宴集するにみなこれを佩す、而して郭はすでに人に遣(つかわ)せり。

ある日、一族の宴会を行ったとき、みなにこの剣を帯びさせた。ところが、郭はその剣を、すでにどこかへの贈り物にしてしまっていた。

秦は大いに怒り、その晩に帰宅した後、二度と門から入らせることは無かった。

3.嬌客(調子に乗りすぎたお客)・・・呉益

呉益、字・常之は名家の出で人となり純粋で謹直であったので秦太師のお気に入りとなり、郭知運が一族から追われたあと代わって臨安の令となることとなったが、まだ発令されないうちに秦が亡くなってしまい、結局、実際に発令されることなく、官職に就くことができなかった。

4.上客(尊重されたお客)・・・朱希真

朱希真は(金の占領下になった)洛陽出身のひとで、もともと遺逸(試験を受けずにいる賢者を推薦する任官システム)によって採用されたひとで、一度退職してから再び任官された。

多記中原事、秦喜之。

多く中原の事を記し、秦はこれを喜べり。

今は金の占領下にある洛陽あたりの黄河流域のことをよく記憶していたので、秦は(故事などを確認するのに)彼を珍重していたのである。

秦が亡くなった後、官を辞めて隠退したが、十分な養老金をもらったということである。

5.食客(養われていたお客)・・・曹詠

曹詠は秦太師の姻戚で、すこぶる小才が利き、戸部侍郎となってずいぶん権勢があったが、秦の死後は新州に流された。

6.門客(お弟子のお客)・・・曹冠

曹冠は秦太師が試験官をしたときに科挙にすばらしい成績で合格し、秦の弟子(「門客」)という扱いになったひとである。一年も経たないうちに官位が変わるほど早く出世したが、秦の死後、科挙合格の資格を奪われた。その後、再度科挙試験に合格しなおし、荊門軍の幕客となった。

7.狎客(宴会用のお客)・・・康伯可

  詩歌に優れ、秦太師が宴会を開くたびに呼ばれて楽譜や歌詞を献上した。

8.悪客(ひどいお客)・・・湯鵬挙

  湯はもともと秦太師の推薦で官僚となり、秦の晩年に枢密のことに与かったひとであったが、秦の死後、手のひらを返して、

  攻之不遺余力。

  これを攻むるに余力を遺さず。

  全力を傾けて、秦太師の功績を攻撃し、その一党を排斥したのであった。

9.荘客  

10.詞客

余二人則忘之矣。

余二人はすなわちこれを忘る。

すいません、あと二人のことは忘れてしまいました。

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二人を忘れたのは、肝冷斎ではなくて趙景安なので悪しからず。

「雲麓漫鈔」は南宋の新安郡守を務めた趙彦衛、字・景安が古今の故事を集めたもので、もと「擁炉闍I」(十巻)と称したそうですが、開禧二年(1206)に五巻を付け足して、題名も「雲麓漫鈔」と改めたもの。宋代のひとらしく、いろいろ細かいです。

 

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