平成21年 9月16日(水)  目次へ  前回に戻る

五代十国のころ。

福建(当時はいわゆる「十国」の一つであった「閩国」)の建州に一僧あり。

不知其名、常如狂人、其所言動、多有微験。

その名を知らず、常に狂人の如く、その言動するところ多く微験あり。

誰もそのひとの名を知らなかった。そして、そのひとはいつも異常なひとのように振る舞っていたが、その言うこと、行うことは、不思議に後になって「なるほど」と思わされることが多かった。

たとえば、ある村の道端にあった大きな岩の中ほどに突然墨で線を引き、またその岩の上に座って、そこから路上に釣り糸を垂れていた。

これを見たひと、試みに

「和尚、いったい何が釣れますかな」

とからかい訊ねてみたところ、

「魚が何か言うたかな?」

と言うてしきりと首をひねっていた。

しばらくして数日雨が続いた日、上流から大いに水が流れこんだのであろうか、その村において

山水大発。

山水大いに発す。

山中から鉄砲水が流れこんできた。

この鉄砲水は僧が釣の真似をしていた岩をかすめて渓谷に落ちて行ったのだが、ちょうど僧が墨を引いたところまで水に浸ったといい、また、僧をからかって声をかけた村人は、鉄砲水に流されて行方知れずになってしまったという。

このひと、癸卯の年(西暦943年である)の暮に、街道筋の樹に登り、大汗をかきながら南向きの枝を切り落としていた。

「なにをしておられるのか?」

と人が問うと、

免礙旗旛。

旗旛を礙(さまた)げるを免ぜんとす。

「旗指物の邪魔にならんように、と思いましてなあ」

とのんびり答えた。

また、自らが仮寓する建州城外の荒れ寺の壁に

二十五人

と大きく墨書した。

年が明けるや、浙江の呉越国が攻め込んできて、僧が枝を切った樹の下を行進し、建州城を攻略したのであった。

この際、呉の軍が城の内外に駐屯したが、この際、一分隊が城外の荒れ寺にも分宿した。ちょうど二十五人であったという。

ひとびとはその前知の能力の確かであったのを知った。

しかるにこの僧、この分隊が寺を接収するときに、邪魔になると思われたのであろうか、兵士たちに嬲り殺されたのであった。

以前から彼は町のひとびとから、いったい何時になればこの戦乱の日々は終わるのだろうかと問われるたびに、にこにこしながら

儂去即安矣。

儂(われ)去れば即ち安んぜん。

「わしがいなくなれば平和になるのですがのう。」

と答えており、ひとびとはどういう冗談であろうかと訝っていたのであるが、このときの呉越の侵入によって閩国が呉越国に併合された以降は、宋の統一(960)に至るまで、福建をめぐって争いが起こることは無かったのである。

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五代〜宋の徐鉉(字・鼎臣)「稽神録」より。(ただし「太平広記」巻八十六所収)

いつも言うておるのですが、こんな話ばかり「稽神録」に書き集めていた徐鼎臣さんが南唐国で吏部尚書を務めた政治家だと聞くと、そんな南唐国は滅びて当然だなあ・・・・と思いませんか。

 

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