平成21年 5月12日(火)  目次へ  昨日に戻る

4月18日の続き。

李孔修、字は子長、は明のひとで、若いころは広州の高第街なるところに住んでいた。

その人柄を知った張東所が誘って、ともに陳白沙先生のもとに入門したのである。

子張は詩文を愛するひとだったが、科挙試験の類をまったく受けなかったので、「布衣」(一民間人)であり、広州の町で食糧品の仲買のようなことをしていたらしく、

常輸糧于県。

常に県に糧を輸す。

いつも県庁に食糧を納入していた。

あるとき、県令がその文雅な振舞いを見て興味を持ち、その姓名を問うたことがあったが、子長は答える気にならなかったのであろう、

第拱手。令叱之、曰、何物小民、乃与上官為礼。

ただ拱手す。令、これを叱し、曰く、「何物ぞ、小民、乃(なんじ)上官と礼を為すか」

県令に対して、士大夫同士が出会ったときの丁寧な礼である拱手礼(胸の前で手を組み合わせて頭を下げる礼)を執り行った。

これに対し県令は、

「いったいお前のような一民間人が、どうしてわしのような上の上の上の方の役人と対等礼をとれるのか?」

と怒鳴った。

土下座しろ、というのである。

子長は、

拱手如前。

拱手前の如し。

そのまま、拱手礼をとり続けた。

ので、県令は怒り、

笞五下。

笞、五たび下す。

一般の人民に対するように、杖で五回打った。

しかし子長はとうとう何も言わずに引き上げてきたという。

後のこと、父が没し、継母が実家に帰ってしまったのだが、この継母、子長が財産を奪ったと訴え出、ために子長は県令に取り調べを受けることになった。

このとき、子長は筆を操って、

母言是也。

母言、是なり。

継母の言うことが正しうございます。

と回答した。県令はその申し出に驚き、実態を調べて、実は子張の方が正しいのであるが、孝行の道を尽くすために敗訴するつもりであることを知り、子張の人格の崇高であることを認識して、継母の訴えを斥けた。

それ以降は、

大礼敬。

大いに礼敬す。

たいへん尊敬し、礼を尽くした対応をするようになった。

ということです。

さて、子長は詩をよくするとして評判で、あるとき作ったのが、

月明海上開樽酒、  月明かにして海上に樽酒を開き、

花影江辺落釣蓑。  花影は江辺の釣蓑に落つ。

 月が明るいので、(南シナ海の)海原の見えるところで酒樽を開いて飲むことにするぞ。

 花の影が海に流れ込む川のほとりで、釣をしている(自由人の)わしの蓑の上に落ちかかってくるよー。

というのであるが、この句は白沙が、

後二十年、恐子長無此句。

後二十年にして、恐らくは子長にこの句無からん。

あと二十年もすれば、子長も(今のわしと同じような年になって)こんな句は作れまい。(まったく気力がないと作れない詩句であり、わしにはもう作れないであろうから、悔しいところである。)

と評したので有名になった。

子長は中年以降は家業を廃して、抱真先生と自称して山中に居を構えて読書を楽しむ日々を送った。

二十年不入城、児童婦女皆称曰子長先生。偶出山則遠近圜視。以為奇物。

二十年入城せず、児童婦女みな称して「子長先生」と曰う。たまたま山を出ずればすなわち遠近圜視(かんし)す。以て奇物と為すなり。

「圜」(かん)は「めぐる」「周りを取り囲む」。

二十年にわたって町には出て来ず、(浮世と縁を絶った立派なひとだと評判で)こどもや女房衆まで「子長先生さま」と尊称していた。たまたま山から出てきたりすると、遠いところや近所からひとびとがやってきて、先生を取り囲んで見物に集ったものである。たいへん珍しいことだ、とされたのだ。

亡くなるまでとうとう子が無かったので、子孫に先祖として祀られることは無いのだが、

郷人祭社、以先生配。

郷人社を祭るに先生を以て配す。

村人たちは、村の鎮守の廟に先生も祭神の一柱にして祀っていた。

その死後、

「子長は性格的に鋭さに欠けていた。彼は愚か者である、だから試験を受けられなかったのだ、「廃人」であったのだ」

と言いふらしたひとがいた(「廃人」というのは、支配者階級において役に立たないひと、というような意味合いである)。確かに子長の顔つきはそのように見えたが、彼に親しかった陳秉常は、

子長誠廃人。然実非愚。

子長は誠に廃人なり。然るに実に愚にあらず。

そのとおり。子長は(お前サンたちのような)役人とその取り巻きの中では、まったく役に立たないやつだった。しかし、実際のところはオロカではなかった。

と評している。

まことに当を得たものであろう。

あるいは、霍韜というひとの評であるが、王陽明と並称される陳白沙の思想というのは、己れの節を守って世間を動かすというところにあったので、その志は、あまたの弟子の中で、

惟子長張詡、守而不失。

子長と張詡のみ、守りて失わず。

李子長と張東所だけが、最期まで守り通したのではないだろうか。

というのが、先生を最もよく評価するものではなかろうか。

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「明儒学案」巻六より。

 

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