梅の花。しかし何を見てもやる気にはならず、出るは涙。

 

平成21年 3月23日(月)  目次へ  昨日に戻る

なんとか帰宅してまいりました。今日は何とかバクハツしなかった。

さて、では、今日は久しぶりで清・悟元道士・劉一明「通関文」のお話をしておきましょう。

・・・才智関を通り抜けて山道を急ぐわたしの前に、また新しい関門が現われた。取り立てて目立つ関門ではないが、題額に

任性関(性格に任せてしまう関門)

とあった。

お。

珍しく関門の前には劉道士が払子を手にして待っておられました。先生の隣には童子もにやにやしながら立っている。

わしは両手を胸の前で組んで、頭を深々と下げてご挨拶申し上げた。

道士、言う。

「肝冷斎よ、おまえは前回の「才智関」は楽々と通り抜けたのであるが、その前の「懶堕関」を通り抜けるには大変苦労した。何故か考えたか」

「は。・・・何故といいますと、前回はただの関門でしたが、前々回は狭かったので、でぶのわたしには困難だったのでございます・・・」

とお答えすると、道士、

「うーむ。半ばは当っているといえよう」

とうなずきはしたものの、払子を一回、しゅ、と振って、説教が始まったのであった。

「肝冷斎よ、聖人はその性質、

円明、純白無疵。

円にして明か、純白にして疵無し。

円満で明朗、まっさらでキズが無い。

しかし、それ以下のニンゲンは、

各有偏病在身。

おのおの偏病の身に在る有り。

みな、そのそれぞれに偏ったところがあるのじゃ。

肝冷斎よ、おまえが「才智関」は得意だが「懶堕関」は苦手だ、というのも、性格に偏りがあるからなのである。そして、性格の偏りそのものが

実為性命之大害。

実に性命の大害たり。

本当のいのちにとって、まことに大きな害をなす「関門」なのだ。

そのような性格の偏りは改めねばならん。それがこの「任性関」の意義である」

へー。わしの性格が偏っているのが害なのか。でも、まあいいじゃん・・・

と思いました。

と、途端に関門は「ぎ、ぎ、ぎ」と音を立てて扉を閉ざし始めた。

「あわわ」

わしが驚くと、

「うひゃひゃ」

道士が嬉しそうに笑った。

「肝冷斎よ、何か怪しからんことを考えたようじゃのう」

「うう、申し訳ございませぬ」

わしが謝ると、関門の扉は動くのを止めた。

「なに、性格の偏りを改めるといっても難しいことではない。

反愚為賢、反悪為善、反濁為清、反弱為強。

愚を反して賢と為し、悪を反して善と為し、濁を反して清と為し、弱を反して強と為す。

オロカをやめて賢くなり、ワルをやめて善人となり、濁った心をやめて清々しい心となり、弱弱しい心をやめて強い気持ちを持つ。

だけでよいのであって、その逆までやれ、というわけではないからな」

うひゃあ。

それは難しいことでござる。

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というところで今日はもう寝ます。いろいろ眠い、というか現実逃避したいのです。

 

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