↑どうも。春じゃのう。

 

平成21年 3月 9日(月)  目次へ  昨日に戻る

この数週間は夢でも見ているようであった。ただし夢は夢でも悪夢の方じゃが・・・。

ということで、今日は2月23日の続きです。

かなり厳しかった「懶堕関」を通り抜けたわしは、細い山道を昇って、やがて大きな関門の前に出た。ここでわしはついに、先に行っていた何人かの修道者たちに追いついたのである。

それにしても大きく、屋根は金色に光り、壁や柱は赤や青に塗られた美しく目立つ関門である。これまで通り抜けてきた関門の中でも、立派さでは屈指のものと見てとれた。その門扉は既に半ばは開いているのだが、修道者たちは上を向いたり横を向いたりするばかりで通り抜けようとしない。

「いやあ、大きな関門ですなあ」

と、わしは門扉の前に立っている他の修道者たち(十数人もいたであろうか。彼らはみな風采は立派であり、その中には如何にも知恵者という雰囲気の者もいたし、また印象的であったのは若い女修道者が多くいたことである)に声をかけてみた。

ところが何とも不思議なことに、その修道者たちは、口々に、

「関門?」

「ここに関門がある?」

「なに、このひと?」

「ばかじゃないの?」

「ここは単に壁になって行き止まりになっているだけじゃないか」

「おかしなことを言うひとだ」

「ところでここは行き止まりだから、われわれは何処に向かえばいいのだろうか」

と言うのである。

「あ、あんたらには、この関門が見えないのか?」

と開いた口が塞がらないでいるところで、関門の上、金銀に塗られた二階の欄干から、

「おまえたち、何をしているのか」

という悟元道士・劉一明の声が聞こえた。

振り仰ぐと払子を手にして立っている道士の姿があり、その背後には、

才智関

と書かれた大きな題額が懸かっているのが見える。

しかし、驚いたことに他の修道者たちにはその道士の姿さえ見えないようで、

「おお、道士さま、いずこからお話になっておられるのか」

「われら才智あふれる修道者にお導きを」

「ここは行き止まりです。われわれのような進歩し続けて来たものは立ち止まっていることができないのです」

と口々に文句を言っているのである。

「ええい、修道者どもよ、よく聞け」

道士は払子を、しゅ、しゅ、と振りながら論じ始めた。

才智者世人之所珍重者也。

才智なるものは世人の珍重するところなり。

「才能と智慧は、世間のひとびとが尊重するものである。

功名を立てること、財貨を稼ぐこと、これらは才智無くしては不可能である・・・とおまえたちは思っているのではないだろうか。

だが、本当にそうであろうか。

然究其実、人人倶被才智喪其身。但人未之深思耳。

然してその実を究むるに、人々ともに才智によりてその身を喪うなり。ただ、人、いまだこれを深く思わざるのみ。

そこで、その実態をよくよく研究してみると、ひとびとはみな、才能と智慧によって自分自身を喪失してしまっているのが実際ではないか。ただ、おまえたちはそのことをいまだ深く考えていない、というだけではないのか。

どういうことであろうか。

おまえたちはいつも、才能と智慧のあることを誇るが、そのおまえたちはただ進むを知りて退くを知らず、幸福を知りて禍が同時に起こるのを知らない。どうしてそうなるかというに、

不知才智誤事最大。

知らず、才智の事を誤ること最も大なるを。

本当は、才能と智慧が、おまえたちの行動を誤らせる最大の原因なのだ。

おまえたちは、一挙一動において自らの小さな聡明さ・仮の怜悧さに頼り、人前で能力を誇り、自ら他人は自分に及ばぬと思い、自らの才能と智慧によりかかって、

あるいは眼中に余人無く、

あるいはかりそめの衣食を得、

あるいは間違いを正しいと言い張り、

あるいは年長の者を言い負かし、

あるいは嘘言を以てひとをたぶらかし、

あるいは公の裁判を誤らせて他人を迷わせ、

あるいは詩歌を作って己れを誇り、

あるいは僅かなことを学んだと言って何も知らないのにひとを指導する。

これらは、すべて

黒夜里走路径、涸井中做生活。

黒夜里に路径を走り、涸井中に生活を做すなり。

暗闇の中で小道を走るような(無謀な)ものであり、涸れた井戸の中で生活しているような(いつ水が出て溺れるかわからない危うい)ものであるのだ。

本当の求道の士が、こんなことをしているはずがない、と思い及ばないか」

道士は払子を左右に大きく振った。

「あい」

じゃーん、じゃーん、じゃーん・・・

童子が側でドラを鳴らす。

しかし、他の修道者たちはそれさえも見えぬようだ。

「どこか遠くでドラが鳴っているのう」

「われわれほどには才智の無い者たちを導いているのでしょう」

「わたしたちは童子などに指導されなくても大丈夫なぐらいの才智は持っているからな」

などと話し合っているばかりなのだ。

道士は続ける。

「本当に道を求める者は

一念純真、万有不知。尋明師訪良友、以性命為一大事、老老実実、樸樸誠誠、一切仮才仮智絲毫不用矣。

一念純真にしてよろずに知らざること有り。明師を尋ね良友を訪い、性命を以て一大事と為し、老々実々、樸々誠々として、一切の仮の才・仮の智を絲毫も用いざるなり。

ただ一つの思いを純粋に志し、いろんなことには知らないことがあってもいい、と思っている。優れた師匠・良き道友を探し訪ね、本当のいのちのことをもっとも大切にしている。老人のように思慮深く、中身は充実し、素朴で誠実で、すべてのかりそめの才能やかりそめの智慧を糸や毛ほども使うことはない。」

これは重要なことである。

じゃーん、じゃーん、じゃーん・・・

童子もまたドラを鳴らしたのであるが、修道者たちは

「遠くでまたドラが鳴っていますね」

「わたしたちは才智があるから先に来過ぎているのよ、後れたやつらを引き上げるために童子さんも大変ね」

「われわれほどの才智がみなになれば、指導するひとたちも苦労しなくていいのにねえ」

と話しているだけであった。

道士、言う。

吾勧真心学道者、速将才智関口打通、掃去外用之仮才智、就于内用之真才智。

吾は勧む、真心の学道者よ、速やかに才智関口を打通し、外用の仮才智を掃去して、内用の真才智に就け。

「わしは、おまえたち真心からタオを学ぶ者に勧める、すみやかにこの「才智関」を通り抜けて行くがよい。そのためには、外づらのかりそめの才能や智慧を棄て去り、内なる真の才能と智慧に目覚めさえすればよいのだ。

以誠而入、以柔而用、庶乎学道有望。

誠を以て入り、柔を以て用うれば、道を学ぶに望み有るに庶(ちか)いかな。

誠実にその方向に向かい、柔和にその才智を使うならば、タオを学んでやがて希望のところまで行けることもあるであろう。

だが、そうでないならば、ただ自分あるを知るばかりで人あるを知らず、才を恃み智を用い、謀を使い詐りを仕掛けるだけで、

本欲向前、反落于後、妄想明道難矣。

本よりは前に向かわんと欲するに、反って後に落ち、妄想して道を明かにするは難いかな。

本当は前に向かおうとしているのに、反対に後ろに向かって落後していくことになり、間違った考えであってタオを明確にすることは困難であろう。」

道士が話し終えると、

ぎぎぎ・・・。

既に少しは開いていた門扉が、さらに大きく開かれた。

「さあ、早く行きましょう」

わしは他の修道者たちに声をかけたが、無駄であった。

彼・彼女らは、

「何を言っているのだ、キミは」

「そこは行き止まりに過ぎぬ」

「あわれなものね、自分の置かれた状況に気づかないなんて」

とわしをアワレみの目で見る始末。

わしは彼・彼女らがかわいそうになったが、劉道士にも救えぬやつらをわしが何ともできようはずがない。

「あわれ、とはどちらのことやら・・・」

わしは溜め息をつきながら、一人、「才智関」の大きな門を通り抜けたのであった。

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清・悟元道士・劉一明「通関文」より。

二週間ぶりで訳してみましたが、やっぱりいいこと言っているなあ、と思った。どうしてみなさん、悟元道士の言葉を聞こうとしないのか。(わしもさすがに疲れてきているので、いつまでも黙々とあほうのように訳してくれると思っていてはいけません。) 

え? 聞こえない? このページが白紙にしか見えない? ああ・・・。

 

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