↓こういう方向に努力できるか。

 

平成21年 2月24日(火)  目次へ  昨日に戻る

なんでしたっけ。

ああ、そうでした、随分間が空きましたが、2月3日賀医閭先生のお話の続きです。

先生は白沙先生の教えを受けて職を辞し、遼の実家に帰って、門を鎖して出でざること十余年であった・・・。

で、突然何か言い出しました。その内容や如何。

吾人之学、不必求之高遠、在主敬以収放心。勿忘勿助、循其所謂本然者而已。

吾人の学は必ずしもこれを高遠に求めず、敬を主として以て放心を収むるにあり。忘るる勿(な)く助くる勿(な)く、その所謂る本然なる者に循(したが)うのみ。

わしらの学問(儒学)は、これを高く遠いところに求めなければならないものではない。(われらの学問は)謹み敬う心を主として、ばらばらになった心を元に戻すことにあるのである。忘れてしまうわけでもなく、助長するというわけでもなく(自然に)、いわゆる「本当のところ」に従っていく、というのがそのあり方なのである。

故推之家庭里閈間、冠婚喪祭服食起居、必求本然之理。而力行之、久久純熟、心跡相応、不期信於人而人自信。

故にこれを家庭里閈(カン)の間に推し、冠婚喪祭・服食起居において必ず本然の理を求む。しかしてこれを力行し久々にして純熟し、心跡相応して、人に信じらるるを期せずして人自ずから信ずるなり。

そこで、これを(自分だけでなく)家庭や町内のひとびとの間に押し広げていき、元服式やケッコン式やお葬式や追善式、あるいは服を着たりメシを食ったり起きたり座ったりの間に、つねにこの「本当のところ」の真理を求めることにする。これを努力して行い、長く続けて純粋にして煮詰まってくれば、考えていることと行動とが一致するようになり、他人に信じてもらおう、などと思わなくても他人から信じてもらえるようになるのだ。

というのでした。

ちなみに「求放心」「忘るる勿れ、助長する勿れ」というのはいずれも孟子の中の高名な修養方法論であり、また儒学に特有の「自分から始めて段々他のひとにも及ぼしていく」という「推己」の手法が典型的に見られますね。

さて、先生が引きこもった、実家のある「遼」地方はいわゆる東北地方、後に後金あるいは清を立てる女真族との最前線に当ります。町には辺境を守備する荒くれの軍隊がたむろしていた。

有辺将詐誘殺為陣獲者。見先生即吐実。曰、不忍欺也。

辺将の詐りて誘殺して陣獲と為さんとする者有り。先生を見て即ち吐実す。曰く、「欺くに忍びざるなり」と。

辺境守備隊長の中には、ひとをだまして連れ出して殺してしまい、戦闘でとった首級にしようとした者があったが、先生を騙して誘い出したものの、先生の姿を見て、正直に白状したのであった。

何故そんなことになったかというに、先生の様子を見るとどうしても殺すことができなかった、ということであった。

また、

城中乱卒焚劫、不入其坊。先生諭之、衆即羅拝而泣曰吾父也。遂解散。

城中にて乱卒焚劫するもその坊に入らず。先生これを諭すに、衆すなわち羅拝して泣いて曰く、「吾が父なり」と。遂に解散す。

町中であらくれの兵士たちが火をつけたり乱暴したりしても、先生の町内には押しかけることはなかった。

先生があらくれたちを諭すと、兵士たちはみな先生を伏し拝み、泣きながら「まるでおやじに諭されたようだ」と言って、解散して去って行った。

という。

其至誠感人如此。

その至誠のひとを感じせしむることかくの如し。

その至れる真心が他人を感動させたこと、このようであった。

先生は正徳庚午(1510)年、十二月に卒した。年七十四。

先生の白沙先生を尊敬すること、並大抵ではなく、

懸其像於書室、出告返面。

その像を書室に書け、出でては告げ、返りては面す。

白沙の画像を書斎に掛けてあり、出かけるときは用務を申し上げ、帰ってきたときは画像をじっと見つめているのであった。

別三十年、其守如昨。

別して三十年、その守れるや昨の如し。

別れてから三十年間にわたって、その習慣はまるで昨日白沙先生に教えを受けたかのように変えることがなかった。

という。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「明儒学案」巻六より。来週は、もし生きていたら賀医閭先生の言行録から二三話ご紹介を・・・と思ったのですが、誰も期待してないでしょうから好きにさせていただきます。表の仕事はこんなことやってられる状態ではないのだが、もう●めることになって開き直っているのですな。

 

目次へ  次へ