平成21年11月8日(日)  目次へ  前回に戻る

わたしが、その老人を見たのは、武昌の街中だった。時は永楽(1403〜24)のはじめごろだったか。

老人は碧色の目をしていた。髪は茶色に褪せていたが、かつては黄金の色をしていたという。背はひょろりと高かったが、杖に寄り添って長い足をぎこちなく動かしながら歩くさまは、老いさらばえた鶴を思わせた。

まことに彼は老いた鶴だったのである。

商売のためにはじめて武昌の街に入ったわたしは、その老人の名を知らなかった。ただ、街のひとびとがその身寄りの無い貧しい老人を敬っているのは明らかだったから、だいたいの目星はついた。

街中のひとにその老人の名を確かめる。

「まことに、あの方が丁鶴年だ」

・・・モンゴル族は元という国を作り13世紀に嵐のように東の大陸に広がった。嵐が激しければその去るもまた捷い。大元帝国の支配は14世紀の半ばには崩壊を始め、その朝廷は漠北の故地に帰って行ったのだが、それでもその間に、この大陸に多くの「標し」を遺していった。丁鶴年こそ大元帝国がこの土地に遺していった「標し」が「ひと」の形をとったものである。

彼の家は、彼の父の代まで漢民族風の姓が無く、彼の姓である「丁」(ディン)は、彼が自ら附けたものである。

彼の曽祖父は阿老丁(アルラッディン)といい、その弟の烏馬児(ウマル)とともに、元の世祖(フビライ=ハーン)の征西を助けた貿易商人であった。阿老丁は軍資と軍用品の調達を通じて西北の諸国を征するにしばしば功あり、年老いて後、大都(北京)近郊の田宅を賜り、皇帝の直接の保護を受けて大地主となった。いわゆる「色目人」である。

烏馬児の方はさらに累進して甘粛の行中書左丞(行中書省の事務方の最高官)となり、阿老丁の孫にあたる職馬禄丁(シマロッディン)は烏馬児の一族として武昌の達魯花赤(ダルガチ。長官)に任命され、恵政あり、官を終えた後もその地に止まって、手広く商業を営み、また近郊にかなりの土地を買って土地経営も行った。

職馬禄丁は、丁鶴年が少年のころに亡くなったようである。

至正十二年(1352)、すでに至正八年の方国珍、十一年の紅巾軍の乱の勃発により元帝国は江南の治安を失っていたが、この年、武昌も戦乱に巻き込まれ、十八歳になってはやくも文章家として評判を得ていた鶴年は義母を奉じて浙江へと避難した。いずれは元朝の催す科挙試験に応じようというつもりだった鶴年の人生は、このときから暗転したのである。(ちなみにこの年、安徽の食い詰め者で僧形となっていた朱元璋という若者が紅巾軍に参加している。後の明の太祖である。)

各地を放浪すること十年、義母の死を見取り、さらに五年の後、しばらく四明の町に落ち着いたが、やがてこの町が方国珍の勢力下に入ると、また逃亡せねばならなかった。方氏勢力が色目人を悪むこと深かったからである。

鶴年は浙江の海沿いの村落を転々とし、

為童子師、或寄居僧舎、売薬以自給。

童子の師となり、あるいは僧舎に寄居し、薬を売りて以て自給す。

村のこどもを教える塾の先生をし、あるいは寺院に住み込ませてもらい、薬売りをして糊口をしのいでいた。

あるとき、以前の知合いに会い、一献の酒を酌んだ後、別れに当って彼の成した句にいう、

行蹤不逐梟東徙、   行蹤(こうしょう)は梟(きゅう)の東に徙(うつ)るを逐わず、

心事惟随雁北飛。   心事はただ雁の北に飛ぶに随わんとす。

 ふくろうのような悪玉が支配する江東からは逃げ出すしかないのさ、

 心の中ではただ雁が北の国に飛んで行くのを追いかけて(華北の元朝のもとへ)行くのを夢みている。

と。

彼の人柄と才能を知る者はみな、これを伝え聞いて悲しんだという。

それからまた十数年の時が流れ、明王朝が江南を支配するに至り、彼は新しい王朝の符牒(道中手形)を得て、ようやく武昌の地に帰ってきた。既に中年を過ぎていたが、なお彼を知る者があって、小さな居所と授業料を得るための塾舎をあつらえてくれた。

さて、鶴年には父の正妻であった義母のほかに、妾であった生母があったが、この母は彼が少年時代に実家に返されて、戦乱の間まったく消息が不明であった。ようやく郷里に帰った鶴年は、生母の実家を訪ねてみたが、相次ぐ戦乱の間に一族はすべて滅び、以前小作をしていた老人にその家の跡地を教えてもらうのがやっとであった。

この廃屋で、鶴年の生母を含むその一族が虐殺されたのである、という。

老人の言うままに裏庭を掘ると、一尺にも至らないうちに何人分もの白骨が現われた。鶴年は

慟哭行求、噛血沁骨、斂而葬焉。

慟哭して行き求め、噛血して骨に沁し、斂(おさ)めて葬れり。

大声を上げて泣き叫び、腕を歯で噛み破って血を白骨にしたたらせると、そのうちの一体のみ、他と違いしたたった血が吸収されるものがあった。これを棺に納めて帰り、葬儀を営んだのであった。

親子の間では骨に血が沁み込むという古い伝説を信じたのである。

この葬儀以降、彼のことを知らなかった武昌の新しい住民たちも、彼の誠実なひとがらを知り、「丁孝子」と呼んで尊敬するようになったのであった。

鶴年は、

自以家世仕元、不忘故国。

自ら家世元に仕うるを以て故国を忘れず。

自分は代々元朝に仕えてきたのだ、ということで、祖国を忘れることはなかった。

だから、

庚申北遁

といわれる元朝の華北からの撤退(洪武十三年、1380)の後は、毎年、国家の祭日には忍び泣きをして故国のことを偲んだのである。

晩年は酒と肉を絶ち、父母の墓の側でまるで墓守のように貧しい暮らしをしていた。わたしが彼に会ったのが、ちょうどそのころであったのだ。

わたしはまた行商に勤しむ身であったから、明確に没年を覚えているわけではないが、丁鶴年はその後、いくばくも経ずして亡くなった。

子孫は無かったが、正統年間(1436〜49)になってから、時の皇帝の命によって彼の詩文集が世に出されたので、詩人としての朽ちざる名を遺すこととなったのは幸なことであった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「列朝詩集小伝」甲前集より。

 

表紙へ  次へ