令和2年9月24日(木)  目次へ  前回に戻る

まだ現世にいるとは情けないのう。

なにしろわしは肝冷斎の残存思念波でしかなく、本体はすでに現世に無い。「ということはニセモノ?」と思う人もいるかも知れないが、しかし本来生きているニンゲンというのはどんどん変化していくので、その都度ニセモノに変じていくものであり、わしのような残存思念波こそホンモノとも言いうるのである。

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明の成化年間(1465〜87)、白麟という読書人階級の者がいた。

このひと、

専以伉壮之筆、恣為蘇、黄、米三家偽迹。

伉壮の筆を以て専らにし、恣ままに蘇、黄、米三家の偽迹を為す。

素直で壮麗な書を書くのが専門で、宋代の蘇東坡、黄山谷、米芾の三名筆のニセモノを好き放題に書いていた。

ところが、

人以其自縦自由、無規擬之態、往往信為真。

人、その自縦にして自由、規擬の態無きを以て、往往にして信じて真なりと為す。

ひとびとは、彼が自由気ままに書いていて、(ホンモノに)似せようという様子も無いことから、往往にしてその書をホンモノの宋代の字だと信じてしまうのであった。

これこそ、

所謂居之不疑而售欺者。

いわゆるこれに居りて疑わずして欺くを售る者なり。

いわゆる「自分でそうだと信じて、ひとを騙して何かを買わせる」という人物である。

有名な、

蘇公酔翁亭記草書即其手筆、至刻之石矣。

蘇公の「酔翁亭の記」の草書は即ちその手筆にして、これを石に刻むに至れり。

蘇東坡の「酔翁亭の記」の草稿、と称するモノは実はこの人の筆跡で、しかしホンモノと信じられて、とうとう石碑に刻まれて酔翁亭の跡地に建っている。

というのであるから大したものである。

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「茶余客話」巻十七より。何がホンモノで何がニセモノかなんてわからぬ世の中です。しかし、本体よりは思念波ですから弱体な状態の上に、いろいろあってほんとうにもうダメだ。だんだん消えかかってきた・・・

 

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