令和2年8月20日(木)  目次へ  前回に戻る

このやる気の無さこそ生きるモノの本質ではなかろうか。

夏は昼寝しないとやっていけない。会社では当然居眠りとなる。居眠りの間はシゴトをしていないのでシアワセである。

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むかしむかし、あるところで、

百年之木、破為犠樽、青黄而文之。

百年の木、破りて犠樽に為し、青黄してこれを文(かざ)る。

「犠樽」というのは、「ウシの形をした酒だる」だそうで、お祭りの際に神さまやご先祖様に捧げるお酒を容れるのに用いる。

こんなものだそうです。

百年成長してきた木を伐って、切り刻んでかっこいいウシの形の酒樽を作った。青や黄色の色をつけて、これに文様を描いた。

みんながお祀りごとに使えるすごくカッコいいものができました。

さて、

其断在溝中。比犠樽於溝中之断、則美悪有間矣、其於失性一也。

その断は溝中に在り。犠樽を溝中の断に比すれば、すなわち美・悪の間有るも、その性を失うにおいては一なり。

ウシの樽を作ったときに出た切りくずは、今、作業場の穴の中に棄てられている。ウシの樽は、穴の中の切りくずに比べれば、確かに一方は美しく、もう一方は汚いという違いはあるが、もう生きている木ではなく、その本質を失ってしまっているという点では同じである。

ニンゲンもそうなのじゃ。

跖与曾史行義有間矣、然其失性均也。

跖(せき)と曾史(そうし)は行義にフ有り、然れどもその性を失うは均しきなり。

「跖」は春秋時代の群盗の頭で、ニンゲンの肝臓を食うのが好きであったという悪の代表、「曾史」は孔子の弟子の曾参のことで、親孝行をはじめすぐれた行いの人として名高い。

盗跖(とうせき)と曾参(そうしん)はその行動や道義性において違いがあるが、どちらも、ニンゲンの本来の姿を失ってしまっているという点ではおんなじなんじゃ。

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「荘子」天地篇より。要するに、シゴトをマジメにする(曾参)のも、卑怯な方法などを使って「あのひとはワルだぜ、そこが魅力だけどな」とか言われながらやる(盗跖)のも、人間の本質を失ってしまっているんです。もう「しない」しか選択肢はないんですね。

 

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