令和2年7月21日(火)  目次へ  前回に戻る

一般にやる気無しドウブツたちは高いところには昇って来ない。

まだ明日も現世に出勤しなければなりません。ほんとは↓のようなタメになる話をしていられる余裕はないのですが・・・。

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春秋の時代のことでございます。

斉の景公(在位前547〜前490)は、斉の都・臨淄の町を視察し、

登東門防。

東門の防に登る。

東門の中にある堤防(土塁)に登ってみた。

この土塁(堤)は、城門の中に起伏を設けて、門扉を破られた際の次の防衛線となるものですが、城壁の外を流れる川の水が溢れたときにそれをせき止める役割も果たしておりました。

さて、公が見ていると、

民単服然後上。

民、単服して然る後に上る。

通行する人民たちは、馬車を通すときに、副え馬を一頭つけて、その上を通り越していた。

公はおっしゃった。

此大傷牛馬蹄矣。何不下六尺哉。

これ、大いに牛馬の蹄を傷(いた)めん。何ぞ六尺を下さざるや。

「この堤は、ウシやウマの足をたいへん傷つけてしまうぞ。どうしてあと1.2〜1.3メートルぐらい低くしておかないのじゃ?」

春秋期の一尺≒22.5センチで計算しました。

お側に控えていた賢者の晏嬰が申し上げた。

昔者吾先君桓公、明君也。而管仲賢相也。夫以賢相佐明君、而東門防全也。古者不為、殆有為也。

昔、吾が先君桓公は明君なり。而して管仲は賢相なり。それ、賢相を以て明君を佐(たす)く、而して東門の防は全きなり。いにしえ為さざるはほとんど為にする有るなり。

「かつて、わが斉の君主であられた桓公さま(在位前685〜前643)は、すぐれた君主でいらっしゃいました。そして、当時の宰相・管仲は賢い宰相と名高うございます。賢い宰相がすぐれた君主を補佐しておられたわけですが、その時代から、この東門の堤防の高さは今と同じで低くされてはおりませんでした。むかしのひとがしなかったことは、たいてい何か理由があってしなかったものでございます。

ご承知のとおり、

蚤歳、溜水至入広門、即下六尺耳。嚮者防下六尺、則無斉矣。夫古之重変古常、此之謂也。

蚤歳(そうさい)、溜水の至りて広門に入るに、即ち六尺を下るのみ。嚮者(さき)に防六尺を下さば、すなわち斉無からん。それ、古えの古常を変ずるを重しとするは、これ、この謂いなり。

以前、川から溢れだして平地に溜まった水が、この門から入ってきそうになったとき、この堤防の上からわずか1.2〜1.3メートルのところまで水が来たのです。それ以前に堤防を1.21.3メートル低くしていたら、いまごろのこの斉の都と国は無くなっておりましたことでしょう。まこと、むかしのひとたちが、古くからの常態であったものを変化させることを、重大なことだと考えて慎重にしていたといいますのは、まさにこのようなことをいうのでございます」

「なるほどなあ」

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「晏氏春秋」巻三・雑上より。「災害に備えるには、むかしのひとの知恵をよく学ばねばなりませんぞ。日ごろの利便を犠牲にせねばならぬこともあるのじゃ」ということです。賢者は過去を学んで将来のことを予想して、いろいろ教えてくださるのでありがたいなあ。

特に、

〇古者不為、殆有為也。(いにしえ為さざるはほとんど為にする有るなり。)

は、科挙試験には出ないと思いますが、カラーマーカーかなんかで線を引いて覚えておきましょう。

ところで最近、チャイナの水害がたいへんだそうです。無謬の賢者の政党が指導しているんだから、常識的には大丈夫だろうと思います・・・が。

 

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