令和2年6月3日(水)  目次へ  前回に戻る

李白吟行図。彼は実家が西域商人でお金持ちだからいいよね・・・と大人になると妬む心も沸いてくるのでございます。

まだ水曜日である。

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清のひと呉修齢先生がいいことを言っております。

意喩之米、文則炊而為飯、詩則釀而為酒。飯不変米形、酒則変尽。

意はこれを米に喩うれば、文はすなわち炊きて飯と為り、詩はすなわち醸して酒と為れるなり。飯は米の形を変ぜざるも、酒はすなわち変じ尽くす。

「思い」をコメに喩えると、「散文」はすなわち炊いてごはんにしたものであり、「詩歌」はすなわち麹を入れて醸してお酒にしたものである。ごはんの方はコメの形が失われていないが、お酒の方は変化してしまって原型はかけらも遺っていない。

しかるに問題は、

啖飯則飽、飲酒則酔。酔則憂者以楽、喜者以悲。

飯を啖えばすなわち飽き、酒を飲めばすなわち酔うなり。酔えば憂うる者は以て楽しく、喜ぶ者は以て悲しまん。

ごはんは食べているうちに腹いっぱいになってきて、そこで終わりになる。お酒は飲んでも飲んでも酔っ払うばかりで終わりがない。酔っ払うと、憂いに沈んでいた者は変に明るくなり、楽しげにしていた者が今度は悲しみに沈んでしまう。

有不知其所以然者。

その然る所以(ゆえん)を知らざるもの有り。

どうしてそうなるのか、理由がわからない部分もありますなあ。

また、李安溪先生が言うには、

李太白詩如酒、杜少陵詩如飯。

李太白の詩は酒の如く、杜少陵の詩は飯の如し。

李太白の詩はお酒のようだ。(長安郊外の)少陵(出身)の杜甫の詩はごはんのようだ。

呉先生と李先生、

二公之論詩、皆有意味可尋。

二公の詩を論ずる、みな意味の尋ぬるべき有り。

お二人の詩についての論には、どちらにもよくよく考えてみるべき中身があります。

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「茶余客話」巻十一より。ツラいことばかりなので、お酒を呑んだら楽しくなるのだろうかと思っても、心配事が増幅されるばかりなのである。

抽刀絶水水更流、 刀を抽きて水を絶つも水はさらに流れ、

挙盃断憂憂更愁。 盃を挙げて憂いを断つも憂いはさらに愁う。

 刀を抜いて水を切断しようとしても、水は切断されることなく流れ続ける―――当たり前のことだ。そして、同じように、

 さかずきを挙げて酒を煽り、憂いを絶とうとしても、憂いは絶たれることなく、さらにわが心を苦しめる!

と李太白が既にカッパしているとおり。

詩でも吟じてから眠りにつこうかと思うのだが、詩はお酒の如きものなので、やはり憂いはさらに憂うばかりであろう。已むにしかざらん。

 

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