令和2年5月8日(金)  目次へ  前回に戻る

明日のことなんか知らんでモー。

やっと休前日。なんかこころが優しくなってくるなあ。任〇堂の「あつまれどうぶつの森」が大ブームだそうですが、どうぶつと仲良くしたいものですね。

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北宋の宝元年間(1038〜40)のことだそうですが、陝西・同州の馮翊村で、

牛生一児。

牛、一児を生ず。

ウシが子ウシを一頭生んだ。

しかし、この子ウシは、

旋失之。

旋(ただ)ちにこれを失えり。

すぐに何処かに消え去ってしまった。

ところがその後、この子ウシが、

家有老翁、八十余、夜則来与老翁共語。

家に老翁の八十余なる有るに、夜すなわち来たりて老翁とともに語る。

その家に八十幾つになるくそじじいがいたのだが、夜になるとそのくそじじいのところにやって来て、二人(正確には一人と一頭)で何やら話し合っているらしいのである。

姿は見えないんですが、

人皆聞之。

人みなこれを聞く。

家の者たちは、みな、その声を聞いていた。

ある晩、このウシが、じじいに向かって言うに、

我昨日往延州与羗賊交戦、南兵失利、劉石二大将皆為賊擒。

我、昨日、延州に往きて羗賊(きょうぞく)と交戦するに、南兵利を失い、劉・石二大将みな賊に擒(とら)われたり。

「羗」(キョウ)は、ヒツジアタマに尻尾のある二本足のニンゲンを表したカッコいい文字で、紀元前10世紀以前からチャイナ西部にいたチベット系の民族のことですが、ここでは「賊」とされていて、その羗族が組織的にチャイナに暴力的な行為に及んでいることを指しています。李元昊が明道元年(1032)に建国した「西夏」との間で、激しい戦いが始まりつつあったんです。

「おいらはモー、昨日は国境に近い延州まで行って、西夏のやつらと戦ってきてたんでモー。しかし、我が宋国の部隊は戦い利あらず敗北して、劉将軍と石将軍の二人の指導者はともに西夏の捕虜となったんでモー」

みんな声は聴いていますので、

隣里相伝喧然、聞邑大夫。方将逮翁詰之、後三日、敗聞果至。

隣里相伝えて喧然とし、邑大夫に聞す。まさに翁を逮いてこれを詰せんとするに、後三日にして敗聞果たして至る。

隣近所から村人にどんどん伝わって大騒ぎになり、村長の耳にも達して、三日目には「デマを流したのはこのくそじじいか!」とじじいを逮捕してきつくお調べになろうかというとき、確かに延州で敗戦があったという情報が伝わってきた。

デマではなく本当のことだったんです。

「いやあ、じいさまはすごい方だなあ」

とてのひらを返して称賛されたのですが、

「いやいや、それはあのウシの子の情報じゃよ」

とじじいは自分の力ではないと主張した。しかし、

自玆州県屢有呼問。

これより州県しばしば呼問する有り。

これ以降、州や県のお役所から、しばしば、じじいに各種事態の今後の予測について説明に来るよう呼び出しがあるようになった。

じじいはウシと相談して、答えてやっていたが、あるとき、

児謝翁曰、我住此、令翁家不寧。

児、翁に謝して曰く、「我のここに住むは、翁家をして寧(やす)からざらしめん」と。

子ウシはじじいに、

「おいらがモー、ここに住んでいると、どうもじじいの一家が騒動に巻き込まれて申し訳ないでモー」

と謝罪して、

遂去、不復来。

遂に去りてまた来たらず。

とうとういなくなってしまって、二度と現れなかった。

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宋・張師正「括異志」巻十より。どうぶつともっと仲良くなれるかと思いましたが、身を退かれてしまいまして、残念です。ウシが予言する、というと、小松左京先生が戦後採集した兵庫県の「くだん」伝説を想起しますが、あれは一回だけしか予言しませんが、こいつは何度かしたようだし、自ら身を退いていくなど、出処進退も見事で、まことに賢者ウシというべきであろう。どうぶつにも学ぶべきことは多い。

 

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