令和2年4月17日(金)  目次へ  前回に戻る

フェニックスである。「おれに火をつけると煙も出るが生まれ変わるのでフェニ」

週末になりました。おいらのような者でも、週末になると憂いを忘れて楽しくなるものですが、今週はちょっとコロナでそうでもない。

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今日は憂いを忘れるような話をしましょう。

烟、一名相思草、満文曰淡巴菰。

烟、一名「相思草」、満文に曰く「淡巴菰」。

タバコは、「相思草」(ひとこいくさ)ともいい、また、満州語では(原語の音訳で)「たんはこ」という。

初出呂宋、明神宗時始入中国、継而北地多有種者。一畝之獲十倍于穀。

初め呂宋に出で、明神宗の時、始めて中国に入り、継いで北地多く種うる者有り。一畝の獲、穀に十倍す。

最初、ルソンで作られ、明の神宗・萬暦帝(在位1572〜1620)のとき、始めてチャイナに入ってきて、それからは華北でこれを栽培する者が増えた。なにしろ、(商品作物であるから)ひと畝ごとの収穫で、穀物の十倍も儲かったのである。

実際にはスペインが中南米からフィリピンに持ち込んだんですけどね。

後乃無人不用、雖青閨稚女、金管錦嚢、与鏡奩牙尺併陳矣。

後すなわち人の用いざる無く、青閨の稚女といえども、金管錦嚢を鏡奩牙尺と併せ陳せり。

その後、これを用いない人はいない状況となり、(成人に限る時代でもありませんから)青いカーテンの閨に暮らす幼女さえ、金の管のキセルを錦の袋に入れたのを、鏡や櫛や象牙の物差しと一緒に並べて持っていた。

というぐらい流行ったのです。

やがて、

「きーー、タバコが許されるなんて、おかしいいいい!!!!!」

という人が現れてきました。

崇禎己卯、禁甚厳、犯者死。

崇禎己卯、禁甚だ厳しく、犯す者は死とす。

明末の崇禎己卯年(1639)にたいへん厳しく禁止され、禁令を犯す者は死刑にすることとなった。

有会試挙人初至京、不知禁例、僕人帯入被獲、械繋城坊、遂刑于市。

会試に挙人の初めて京に至る有るに、禁例を知らず、僕人帯びて入りて獲せられ、城坊に械繋されて、遂に市に刑せらる。

科挙の地方試験に合格した挙人が、中央で行われる会試を受験するために初めてペキンにやってきた。タバコが厳禁されているのを知らず、その下僕にタバコを持たせてペキン市内に入ったため、下僕がつかまり、そのまま留置場に繫がれて、とうとう市場で見せしめの死刑にされてしまった。

ということもあったそうだ。「城坊」は城内の小分けされた町のことですが、おそらく町ごとに江戸の番屋みたいなのがあって、未決囚としてそこにつかまっていたのでしょう。死刑になったのが本人でなくて下僕の方、というところがチャイナらしくて後味さわやかです。

とにかく、タバコが禁止されて、よかったよかった。

相伝世宗(※)謂烟燕音同、以吃烟為嫌。(※は「思宗」の誤まり)

相伝うるに、思宗の「烟」(えん)「燕」(えん)の音同じきを謂いて、吃烟を以て嫌と為す、と。

伝えられるところでは、思宗・崇禎帝(在位1627〜44)は「烟」(えん)が中国東北部を意味する「燕」(えん)と同じ音で、中国東北部を制圧して明と敵対した後金(清)帝国を表わすように聞こえるので、「烟」を吸うのを嫌がったのだ、ということである。

ということであれば、「燕」である大清帝国が天下を取ってしまった後では嫌がられる必要はありません。

「きーー、タバコが許されるなんて、おかしいいいいい!!!!!」

という人もいるかも知れませんが、権力が変わったんだから黙っとれい!

壬午後、禁乃弛、従洪承畴請也。

壬午の後、禁すなわち弛むは、洪承畴(こう・しょうちゅう)の請によるなり。

壬午年(1642)以降、(我が清が中国支配を広げると)タバコ禁止が緩められたのは、投降した洪承畴の要請に依るのだと言われる。(洪は明から離れればタバコが自由に吸える、ということを宣伝材料として使うことを進言したのだ。)

またビッグネームが出てきました。洪承畴(1593〜1665)は萬暦44年の進士、天啓から崇禎にかけて各地で農民反乱軍と戦い、その後遼東で対清軍の総指揮をとりますが、諸将の調整がとれず、兵部の補給を得られないまま、壬午年(明の崇禎十五年、清の崇徳七年)松山城に包囲されて最終的に捕虜になります。その後、清に仕えて順治帝とその摂政王ドルゴンのもとで、北京入城時の作戦指揮、チャイナ本土支配体制の構築、南明征伐の総指揮などに大活躍。もちろん清の建国の功臣なのですが、見事なまでに明を裏切った姿勢から典型的な「弍臣」(二つの国家に仕えた臣)として生前も死後も軽蔑と批判の対象となった。しかしとにかく畳の上で死んだのはすごい、という人ですぞ。

明の崇禎帝が松山城で彼が殉死したと信じて、本来皇族にしか行われない最高の儀礼である十六壇祀という国葬を執り行ったところ、九壇まで終わったところで生きて捕虜になったという報せが入り、ぶちきれた皇帝が残りの七壇を破壊して帰ってしまったという有名なエピソードもあります。

また、

明人小説、称中葉時高麗王妃死、王思甚、夢妃云、葬処生卉、名烟草。

明人の小説には、中葉時、高麗王妃死して、王思うこと甚だしく、妃を夢みるに、云う、「葬処に卉を生ず、名は烟草なり」というと称す。

明代に書かれた物語の中に、中古のころ、高麗王のお妃が亡くなって、王が彼女を思って悲しむこと深く、ついに妃の夢を見た。妃は夢の中で、「わらわのお墓に、一本の草が生えております。その名はけむりぐさ」と言った、というお話がある。

夢の中でお妃は、

細言其状、燃火吸之、可以止悲。

細かにその状と「火を燃やしてこれを吸えば、以て悲しみを止むるべ」きことを言えり。

細かくその草の形を説明し、それから「その草に火をつけて燃やして、そのけむりをお吸いになれば、あなたの哀しみを止めることができましょう」と言った。

「そうか。わたしのことを心配してくれて・・・ありがとう」

王如言采之。

王、言の如くこれを采る。

王はお妃の言うとおりの草を探して、これを採集した。

そして、火をつけて煙を吸い込んだところ―――

「わはは、わはは」

と大笑いして、

「なーんだ、女房が死んだことなんて、大したことじゃなかったんだ!」

と、それからはシアワセに暮らしました。

遂伝其種。殆亦忘憂之類也。

遂にその種を伝うという。ほとんどまた忘憂の類なり。

そして、その種を後世に遺したのだ、ということだ。いにしえよりいう萱草(忘憂草)(←このころシゴトでつらかったんやろなあ)と同じ話である。

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「茶余客話」巻二十より。タバコの話をして、この世の評価の恒無きこと、今批判されていることがいずれ尊重され、いま嬉々として何かを攻撃している人たちがいずれけろっとして掌を覆すものであること、を知ってもらおうと思ったのですが、タバコはこれから未来永遠にぜーーったいに評価されることが無い(とみなさんは信じている)ので、事例にはならないんでしょうね。(嘆息)

(参考)アメリカ大陸原産作物の世界伝播

(上田信「中国の歴史09 海と帝国 明清時代」(講談社2005)p335より)

 

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