令和2年4月11日(土)  目次へ  前回に戻る

「ノロマ」に見えてもいつかはちゃんとした「龍」になれるかも。努力すれば、ですが・・・。ちなみに背後で雲に乗っているのは初代肝冷斎のように見える。

「へたくそ」「まずいやつ」こそ役に立つ(ことがあるかも知れない)んです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

わしは三年前(1822年)に江戸から帰ってきましたところ、殿様が「ここに住め」といって役宅を下さったんです。何の飾りも無いが、しっかりとした建前の家であったので、「拙」の字の意義に適うと思い定めて、「拙堂」と名づけてここに安住した。

さて、

一日、客来難余、曰拙非美名、子何安宅。縦子安之、何至名宅。豈不足上賜乎。

一日、客来たりて余を難じて曰く、「拙は美名にあらず、子何ぞ宅に安んず。たとい子これに安んずとも、何ぞ宅に名づくや。あに上賜を足らずとせんか」と。

ある日、お客が来まして、わしに対して、「怪しからん」と言い出した。

「何がですか」

「この家を「拙堂」と名づけておるそうだが、「拙」(まずい、へたくそ)はいい呼び名ではありますまい。なぜあなたはそれでいいと思ってここに安住しておられるのか。あなたが安住しているのはいいかも知れんが、この家にその名前を付けるのかいかがですかな。殿様からいただいた家を「まずい」とおっしゃっていることになりませんかな?」

わしはぽんと膝を叩いて、

「よいところに気づいてくだすった」

と言った。

非唯我安之、将欲使天下之人悉安之。凡事常損於巧而成於拙。

ただ我これに安んずるのみにあらず、まさに天下の人をして悉くこれに安んぜしめんと欲す。およそ事は常に巧に損し、拙に成るればなり。

「そうなんです。ただ自分がここに安住しようというだけでなく、天下のひとを、みなことごとく「拙」に安住させたい、と思っているんです。何故なら、たいていの事は、「上手」のせいで失敗して、「へたくそ」ゆえに成功するからです。

(中略)

例えば、

攻学業者、不専心致志矻矻累章句、則不達。習武技者、不汗顔亀手汲汲積尺寸、則不成。

学業を攻(おさ)むる者、専心致志して矻矻(こつこつ)と章句を累(かさ)ねざれば、達せざるなり。武技に習う者、汗顔亀手いて汲汲と尺寸を積まざれば、成らざるなり。

学業を修めようとする者は、気持ちを専一にし思いを致して、コツコツと一句一句を解釈していかなければ、全体を理解することはできません。武芸を身に付けようとする者は、顔中汗だらけになり手にあかぎれを作って(夏も冬も)少しづつ身に付けていかなければ、上達することはできません」

「うーん、そうかも・・・」

又笑人為之者、望其外、而其中空疎、不直一銭。一旦緩急為狐鼠態、有難事則避、有大議則譲、不肯出身任国家事。自古当危難之際、売君誤国者、未嘗不在此輩焉。

また、人のこれを為すを笑う者は、その外を望み、その中は空疎にして一銭にも直(あた)いせず。一旦緩急あれば狐鼠の態を為し、難事有れば避け、大議有るも譲り、身を出だして国家の事に任ずるを肯ぜざらん。いにしえより危難の際、君を売り国を誤つ者は、いまだ嘗てこの輩に在らざるなきなり。

「さらにですな、他人がそのように努力を積んでいるのを嘲笑うやつがいます。こいつらは、努力なんかせずに何かを望んでいる者で、内面は空っぽで一銭の値段もつかないレベルのやつです。ある日、大事件が起こったときに、こいつらはキツネかネズミのように(狐疑してうろうろしたり、首鼠両端を持して様子見を決め込んだりと)行動し、難しいことは避け、大問題には妥協し、国家の大事に自分を犠牲にして当たろうとはしないものです。

古来、危険・困難な時節に、主権者を裏切り、国家を誤たせるのは、こいつらばかりなのですぞ!」

「そ、そうかなあ・・・」

而無事之日、貴巧賤拙、是識者所憂也。故不得不反其所貴賎也。

而るに無事の日には、巧を貴び拙を賤しむ、これ識者の憂うところなり。故にその貴賎するところに反せざるを得ざるなり。

「それなのに、無事で安全な時には、みんな上手いやつを尊敬し、へたくそをバカにしやがる。これはわしのような真の知識人が心配しているところなんですよ。そこで、わしとしては、世間の尊敬・バカにするのを逆にしないわけにはいかないのである。

夫拙則専、専則誠。未有専而其事不成者、未有誠而其行不達者。一拙行而真才出矣。士大夫自期曾高之為人、則非拙不可。

それ、拙なれば専なり、専なれば誠なり。いまだ専にしてその事の成らざる者あらず、いまだ誠にしてその行の達せざる者あらず。一たび拙行して真才出でん。士大夫、自ら曾・高の人となりを期せば、すなわち拙にあらざれば不可なり。

「曾・高」と言っているのは、孔子の弟子であった曾参(そう・しん)と高柴(こう・さい)のことです。

「論語」先進篇に曰く、

柴也愚、参也魯、師也辟、由也喭。

柴(さい)や愚、参(しん)や魯、師や辟(へき)、由(ゆう)や喭(げん)なり。

「柴」は高柴(こう・さい)、字・子羔。「参」は曾参(そう・しん)、字・子輿。「師」は顓孫師(せんそん・し)、字・子張。「由」は仲由(ちゅう・ゆう)、字・子路。みんな孔子の高弟です。

(孔子が弟子たちを評しておっしゃった。)「高柴は、あれはバカじゃな。曾参はノロマじゃ。顓孫師はゴマカそうとするぞ。仲由? あれは野蛮人じゃぞ」

とけなしながらも、それぞれの弟子の進歩や長所も併せ見てにやにやしている孔子の姿が目に見えるようないいコトバではありませんか。亡くなった野村監督がにやにやしながらぼやいている状態です。

閑話休題。上の文章を訳します。

えー、「へたくそ」だと「集中してやる」、「集中してやる」なら「誠意をこめてやる」ことになります。集中してやって、その事を成し遂げられなかったひとがいますか? 誠意をこめてやって、その目標に到達しなかったひとがおりますか? へたくそな行動が、真の才能を生み出すのです。サムライが、自分は孔子の高弟の曾参や高柴のようになるんだ、と思い込んだなら、(この二人が「おろか」「のろま」と孔子に言われたように、)まずは「へたくそ」でなければどうしようもない。「へたくそ」なら何とかなるでしょう。

余受国之大恩、不止第宅之賜。故以此自期、又以望於人。区区之心所以図報万一也。

余は国の大恩を受くること、第宅の賜に止まらず。故にここを以て自ら期し、また以て人に望むなり。区区の心の万に一を報いんと図る所以なり。

わしは国(藩のことです。まだ国民国家の概念はない)から大恩を受けております。家をもらっただけではない(。これまでの食い扶持も全部藩からもらっているのだ)。そこで、たいへんな場面で何かを成し遂げるために「へたくそ」であろうと自ら思っています。そして、人にもそうしてほしい、と思っています。これが、わしのちまちまとした心で、藩の御恩の一万分の一でもお返ししようと思って、心がけていることでございますのじゃ」

「は、はあ・・・」

客茫然而退。

客、茫然として退く。

お客はぼうぜんとして帰って行った。

(よし、勝った。)

乃書其言、掛堂之東偏。以庶幾拙者来与。不恤巧者観笑也。

すなわちその言を書し、堂の東偏に掛く。拙なる者の来たらんかと庶幾(ねが)うを以てなり。巧なる者の観て笑うを恤(うれ)えざるなり。

そこで、わしは今回言ったことを文章に書き上げ、この拙堂の東側の壁に懸けておくことにした。

それがこの掛け軸です。

これを見て、「へたくそ」なやつが集まって来てくれればいいと思って懸けたのである。「うまいやつ」がこれを見て嘲笑うだろうけど、そんなのどうでもいいや。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

本朝・齋藤拙堂「拙堂文集」巻一「拙堂記」より。「上手い」文章ですから、拙堂先生が本当に「拙」かどうかというのはあるんですが、それはそれとして、

いにしえより危難の際、君を売り国を誤つ者は、いまだ嘗てこの輩に在らざるなきなり。

は、いま、言論を支配して上手いこと言っているやつらにも、

がーん

と言ってやってほしいですね。

拙堂先生・齋藤徳蔵(1797〜1865)は伊勢・津藩士(江戸藩邸生まれ)。昌平黌に学んで古賀精理の教えを受け、盛年に津に帰って(江戸生まれの江戸育ちなんで実際は初めて赴いたんですが)藩校・有造館の講官となり、以降、その名を詩文において天下に轟かせるとともに、「資治通鑑」等の学習を通じて実事を施す人材を育てたので、全国から有為の才が集まり、俄然津藩は「天下の文藩」の名をほしいままにせし、という。その人気と権威たるや「拙堂文集」「鉄研斎詩存」が明治になってからも教科書としてがんがん売れたほどなので、お蔭で末学の肝冷斎などにも「拙堂文集」は案外安く手に入ったんです。虫食い状態ですけど。

 

次へ