令和2年3月27日(金)  目次へ  前回に戻る

「闇に隠れて暮らすでホウ」「サボっていても夜中なら見つからないでモリ」

社会から逃げ、自粛して家にいるといいですよ。

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「易」の「遯」(とん)卦(上が☰(乾)、下が☶(艮))は、本来「逃げる」ことを善しとする卦です。

まず、「易」の「経」(本体)では、

遯、亨。小利貞。

遯は、亨(とお)る。貞なるに小利あり。

「遯」(の卦が出たら)、なんとかなる。正しいスタンスでやれば、少しいいことがある。

紀元前の「注」である「彖」(たん)伝を閲すると、

遯亨、遯而亨也。剛当位而応、与時行。小利貞、浸而長也。遯之時義大矣。

「遯は亨る」とは遯すれば亨るなり。剛、位に当たりて応じ、時とともに行わるなり。「貞なるに小利ある」は浸して長ずればなり。遯の時義は大いなるかな。

判じ物みたいですが、「易」特有の用語を使っているだけなので、そんなに難しいことを言っているわけではありません。

「遯が出た時はなんとかなる」というのは、「遯げる」ことによってなんとかなるのである。

「剛」(これは陰陽の「陽」の爻(━)のこと)が「位」(「━」は下から数えて奇数の場所にあるのがいい(「正」といいます)とされ、特に下から五番目は「王」の位なので、ここに「━」があると位に「中」(あたる)といいます。「陰」の爻(☷のうちの一本)は偶数だと「正」で、特に下から二番目にあると「中」。)がしかるべき位である下から五番目にあって、下から二番目の陰と対応しているので、その時点での運勢に対応して行動することができる。

「貞なるに小利ある」のは、(下から陰に)だんだんと侵入されてきているから、正しく振る舞っても少ししかいいことはないのである。

「遯げる」の卦が示すその時点での運勢と、その意義は、偉大である。

すばらしい。

逃げ出そう。

ただし、宋儒・程伊川先生にいわせると、「君子」(立派なひと)は、やっぱり逃げてはいけない、みたいなんです。

雖遯之時、君子処之、未有必遯之義。

「遯」の時といえども、君子これに処(お)るには、いまだ必ずしも「遯げる」の義あらず。

「遯」の卦が示す時点であっても、立派なひとがその状況に対処するには、まだまだ絶対に「逃げる」べきだ、という当為はないのである。

尚当随時消息、苟可以致其力、無不至誠自尽以扶持其道、未必於遯蔵而不為。故曰与時行也。

なおも随時消息に当たりて、いやしくも以てその力を致すべくんば、至誠にして自ら尽くし、以てその道を扶持せざる無く、いまだ必ずしも遯蔵して為さざるにおいてせず。故に「時とともに行く」と曰うなり。

そのときの変化する情勢の動向によっては、まだ何か努力することができるようなら、最高の誠意を自ら尽くして、あるべき道理を助け保持することをあきらめることなく、逃げ隠れて力を蓄えるだけで何もしない、ということにしてしまうべきでないのだ。それで、「時勢に対応して行動すべき」と言っているわけである。

聖賢之於天下、雖知道之興廃、豈肯座視其乱而不救。若有可変之道、可亨之理、更不仮言也、此処遯時之道也。故聖人賛其時義大矣哉。

聖賢の天下におけるや、道の興廃を知るといえども、あにあえてその乱るるを座視して救わざらんや。もし変ずべきの道、亨るべきの理あれば、さらに仮言せざるなり、これ、遯の時に処するの道なり。故に聖人、その時義の大なるを賛(たた)うるかな。

古代以来の聖人賢者(周公とか孔子とか晋の謝安とか)が現実世界に対応するに当たっては、あるべき道理が興りつつあるのか滅びつつあるのか(聖人賢者だから先のことは)わかっているのだが、どうして、天下が乱れていくのを座視して救おうとしない、ということがありえようか。もしも流れを変える方法、なんとかできる論理があれば、理屈などこねずに動くのである。それこそが、「遯」の卦が示すような時勢に対処する正しいやり方なのだ。だから、聖人たち「彖伝」において、「遯の示す時勢とその意義は大きい」とおっしゃっているのである。

なんと、逃げてはいけない、というのです。追い込まれてもベストを尽くせ、満員電車で通ってこい、感染するのはたるんでいる、さらには、真夏の炎天下で高校生が野球するのはすばらしい・・・。

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「周易」遯卦「伊川易伝」より。

程伊川的な解釈が、宋代以降、いわゆる「朱子学」(←南宋の儒者・朱晦庵自身の知的営為とはまた別の思想体系と解すべきなんです)の基本的な姿勢になるんで、如何に「朱子学」が近代の東アジアの「言論空間」を歪めてしまったか、がわかりますね。そして、学校や職場での「朝礼」に使えるぞ、というのもわかりますね。

みなさんは土日も満員電車でがんばるのかな?

 

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