令和2年2月26日(水)  目次へ  前回に戻る

仕方がないとはいえ、「そろそろ春になりそうでメ―、起きてもいいかメ―・・・」と思っていたのに、楽しみが遠のいたなあ。

仕方ないから、楽しくてしようがなくなるような効能のあるキノコでも、腹いっぱい食いたいですね。

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現代は清の時代ですが、江蘇・無錫の板村に蔡翁というじいさんがおります。

その壮年のころは、

家甚貧、為人傭工、家中僅種田一二畝、以此為食。

家甚だ貧しく、人の傭工と為り、家中僅かに種田一二畝、これを以て食と為せり。

彼の家はたいへん貧乏で、彼自身は人に雇われて農業労働者として働いていたが、彼の家の田んぼはわずかに一二畝(ほ)しかなく、そこから獲れる米で、一家が食いつないでいたのである。

一畝は6アールちょっと、一二畝というのは10アール程度でしょう。

この10アール程度の田んぼを、蔡は、

父母死後、尽築為墓、負土成封、植以松楸、且編籬以衛之。見者莫不竊笑、其貧如故也。

父母死後、ことごとく築きて墓と為し、土を負いて封と成し、植うるに松・楸(しょう・しゅう)を以てし、かつ籬を編みて以てこれを衛る。見る者、竊(ひそ)かに笑わざるなく、その貧もとの如し。

両親が亡くなった後、すべて埋めてお墓にしてしまった。自ら土を背負ってきて土盛をし、その上には松と楸(ひさぎ)を植えて、さらには竹を編んで垣根を作ってお墓全体を囲んだ。これを見た者たちはみんな陰で笑ったものである。彼の貧乏は以前のとおりなのに、

わずかな田んぼを潰してこんな分相応なお墓を造ったのだから。

彼は他人に雇われて働いて得た収入ですべてをまかなった。

やがて、

隔ニ三年、松楸漸長、松下時出鮮菌。郷人謂之松花菌、日出不窮、毎朝持一二筺入市上売得数百文。

ニ三年を隔て、松楸ようやく長じ、松下に時に鮮菌を出だす。郷人これを松花菌と謂い、日に出でて窮まらず、毎朝一二筺を持して市上に入るに、売りて数百文を得たり。

ニ三年すると、松や楸がだんだんと成長してきて、その根にところにぴかぴかときれいなキノコが生えるようになった。村びとたちはこれを「松の花」キノコと呼んでいたが、毎日出てきて採れなくなることはなく、毎朝一二籠をとって市場に持って行くと、数百文に売れたのであった。

そして、

如是者十余年、積資千金、以之買田得屋、近且為小富翁、有田数百畝矣。

かくの如きこと十余年、積資千金となり、これを以て田を買い屋を得て、近くまさに小富翁と為り、田数百畝を有せり。

こんなふうに十何年か経ったころには、ため込んだおカネが黄金千両にもなり、これによって田んぼ買い、家を入手して、最近はもはやちょっとした金持ちじじいとなって、数ヘクタールの田を所有するようになっているのである。

キノコ長者というべきであろう。

さて、「史記」巻九十二「淮陰侯列伝」の太史公・司馬遷「賛」にいう、

吾如淮陰。

吾、淮陰に如(ゆ)く。

わしはかつて淮陰の地を訪ねた。

淮陰人為余言、韓信雖為布衣時、其志与衆異。其母死、貧無以葬。然乃行営高敝地、令其旁可置萬家。

淮陰の人、余のために言うに、韓信は布衣たるの時といえども、その志衆と異なれり。その母死するに、貧以て葬る無し。しかるにすなわち行きて高敝の地に営み、その旁らに万家を置くべからしめたり、と。

淮陰のひとが、わしのために教えてくれたことには、「淮陰侯・韓信さまは、一般人のころから、その志すところは他のひととは違っていなすったんじゃよ。おふくろさんが亡くなったとき、韓信さまは貧乏で葬式を出すおカネも無かった。それなのに、あちこち探しまわって、高台の上にお墓を営んだんじゃ。その側に一万戸の家を墓守りとして置けるような地形のところにのう」と。

墓守が一万戸もある、というのはトップクラスの貴族である。そんなものに成れるはずだと考えていたのであろうか。

余視其母冢良然。

余、その母の冢を視るに、良(まこと)に然り。

わしは案内してもらって、韓信の母の墓というのを見せてもらったところ、確かにそのとおりであった・・・。

蔡翁の行為は、

亦此意也。

またこの意ならん。

この韓信の思いと同じであったといえるであろう。

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清・銭泳「履園叢話」巻五より。お墓からキノコが出るか出ないか、蔡翁と韓信さまではだいぶん違うような気もします・・・が、よくよく考えてみると、確かに構造主義的には同じだ。さすがは清のひとの学問は精緻であると感心させられますなあ。

 

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