平成32年1月13日(月)  目次へ  前回に戻る

明日の出勤をいやがってぶたとのが多数の影武者の中に、逃げてしまった。君は見つけ出して、無理やり出勤させることができるか?

更新は肝念和尚が続けているようですが、そんなことより明日の出勤は誰がするのじゃ?

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清の初めごろに、高尚友というひとがいて、「高孝子」と呼ばれていた。

そのおやじさんは、若いころ、読書人として地方の学校で学んでいた。父が官員であったことから「特聘」という身分をもらっていたのであるが、

崇禎甲申、聞変即棄家去。

崇禎甲申、変を聞きて即ち家を棄てて去る。

崇禎十七年(1644)三月、北京が落ちて明帝国の正統が絶えた事件を耳にすると、即座に家を棄てて行方不明になってしまった。

その兄が彼の行方を捜して数年経っても皆目わからなかったのだが、

聞海上売卜奇中、兄往卜之。

海上の売卜奇中すと聞き、兄往きてこれを卜す。

上海の占い師がたいへんよく当たる、というのを聞いて、兄は弟の行方を尋ねにその占い師のところに行った。

占い師は幕の向こう側で、筮竹や算命盤を操作して占うらしい。出身や氏名は伏せて占わせてみると、

言当即相見。

言うに、「まさに即ち相見ん」と。

占い師は、「どうやらすぐに会えそうですぞ」との答えである。

「なんと、どこでどうやって・・・」

と、幕を開けて詰め寄ってみると・・・

即特聘也。

即ち特聘なり。

なんと、弟の高特聘本人であった。

強之帰、生一子尚友。

これを強いて帰らしめ、一子尚友を生ず。

無理やりに連れて帰って、所帯を持たせてやったところ、やがて息子も生まれた。その息子というのが、「高孝子」こと高尚友である。

高特聘は、少し落ち着いていたかと思われたのだが、

一日短衣持雨蓋出、不知所之。

一日、短衣にして雨蓋を持ちて出で、之くところを知らず。

ある日、薄着のまま雨傘を手にして出かけて、そのまままた行方知れずとなってしまった。

高尚友はその後成長したが、父については、

数十年無消息。

数十年、消息無し。

数十年の間、死んだか生きているかも情報が無かった。

そこで、高尚友は、

遂築望親楼、毎遇過客輒詢訪、声泪併下。

遂に望親楼を築き、過客に遇うごとにすなわち詢訪し、声泪併せ下れり。

とうとう「望親楼」という旅館を建てて、お客が来るたびに父親の消息を知らないか訊ねた。その時、悲しい声を上げ、涙を流して訊ねるのが常であった。

このため、ひとびとから「高孝子」と呼ばれるようになったのである。

このことは、塩城の滋庵・宋恭貽という人が

経其地異之、紀其事而絵高孝子望親廬図焉。

その地を経てこれを異とし、その事を紀し、「高孝子望親廬の図」を絵せり。

自らその楼で孝子の質問を経験して感動し、そのことを文章にするとともに、「高孝子の望親楼の図」という絵を描いた。

それによって有名になり、文と画は印刷されて多く出回った。

今も望親楼は存在しているが、すでに主人は高孝子より数代あとになり、孝子の父の行方はとうとう知れなかった。

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「茶余客話」巻二十一より。明日から平日。もうダメだ。無理やりに出勤させようとしたら、「その行くところを知らず」になるであろう。

 

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