令和元年12月26日(木)  目次へ  前回に戻る

「今日はわれわれイノシシにとってかなり危険な寓言でぶー」

「トラ的にはそうでもないでガオ」

今年が遅遅として終わらないうちに、一日ごとに一日分、困ったことが増えてくるんです。来年の五日ぐらいにはもう満杯になって、肝冷一族のキャパシティを越えて、取り返しのつかないことになってしまうカモ・・・。

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これは寓言(たとえ話)ですよ。

南方有鳥、五采而象鳳。名曰昭明。

南方に鳥有り、五采にして鳳に象(に)る。名づけて「昭明」と曰えり。

南国に鳥がいて、五色の羽を持ち、鳳凰に似ている。この鳥は「昭明」という名前である。

「鳳凰」は、聖なる王者が立ったときにだけ現れる鳥で、生き物を食べず梧桐の実だけを食べる仁鳥(いい鳥)です。

ところが、この「昭明」という鳥は、

其性好乱、故出則天下起兵。

その性乱を好み、故に出づればすなわち天下に兵を起こす。

本質的に混乱が大好きである。それゆえ、この鳥が現れる時には、天下に兵乱が起こりはじめるのである。

また、

西方有獣、斑文而象虎。名曰騶虞。

西方に獣有り、斑文にして虎に象る。名づけて「騶虞」(すうぐ)と曰えり。

西方に獣がいて、その毛はまだら模様でトラに似ている。この獣は「騶虞」という名前である。

トラはご存知のように猛々しいドウブツですが、それに似たこの「騶虞」は、

其性好仁、故出則天下偃兵。

その性仁を好み、故に出づればすなわち天下兵を偃(や)む。

本質的に仁愛が大好きである。それゆえ、この獣が現われる時には、天下の兵乱が治まる時期なのである。

ところが、この「昭明」と「騶虞」はあまり有名ではないので、

其不知者莫不以為鳳与虎也。

その知らざる者は以て鳳と虎と為さざるなし。

それらを知らない人は、「昭明」を見かけると「あ、鳳凰だ、平和が来るのだ」と言い、「騶虞」を見かけると「あ、トラだ、猛獣だから危険だ」と言うのである。

みなさんはどうですか。「昭明」見たら鳳凰だと思わずに、「あ、昭明だ。危険な世の中になるのだなあ」、「騶虞」を見たらトラだと思わずに、「あ、鄒虞だ。平和な世の中になるのだ」とすぐわかりますか。

さて。

今天下之人、孰不曰予有知也。繇此観之、遠矣。

今、天下の人、だれか予は知る有りと曰わざらんや。これに繇(よ)りてこれを観るに、遠きかな。

いま、世の中のみなさんは、みんな「わたしは物事をよく知っているよ」とおっしゃいます。しかし、この「鳳凰」に似た「昭明」、「トラ」に似た「騶虞」のことをみなさんがどれぐらい知っているのか、と考えると、ほんとは「知っている」というには遠く及ばないんじゃないかなあ。

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「郁離子」巻上より。昨日ご紹介したキノコなべのお話の次に出て来るお話です。どちらも「わしはいろんなことを知っているよ」と言っている人はホントは知っていないぞ、という譬え話になっています。

ところで、本当に「昭明」鳥とか「騶虞」というドウブツはいるのでしょうか。珍しいものらしいので(何しろ鳳凰でさえ見たこと無いもんですから)見た人はほとんどいないはずなので、いるのかどうか確認したくなってきます。

まず、「昭明」という鳥は記録には現われていません。おそらく「史記」巻二十七「天官書」に、

昭明星、大而白、無角、乍上乍下。所出国、起兵多変。

昭明星は大にして白く、角無く、たちまち上がりたちまち下がる。出づるところの国は兵を起こし変多し。

「昭明星」は大きく、色は白い。光芒は無く、突然昇ったり降ったりする(移動する)星である。(この星は普段は見えないが)天の一画に現われたときは、その位置に該当する地上の国では兵乱が起こり変事が多くなるであろう。(このように、天の一画と地上の地域が対応する、という天文占いの基本的な考えを「分野説」といいます)

として出る「昭明星」から、作者の劉基さまが創作したものではないかと思われます。

なんだ、「昭明鳥」は存在しないようだぞ。

一方、「騶虞」という獣は確認できます。「詩経」召南「騶虞」にいう、

彼v者葭、 かのvづるものは葭なり、

壱発五豝。 一たび発すれば五豝(ごは)す。

于嗟乎騶虞。于嗟乎(う・さ・こ(←いずれも感嘆詞))、騶虞よ。

 あそこに盛んに生えているのは、アシである。

 一本の矢を射たら五匹のイノシシが串刺しだ。

 ああ、騶虞さま!

南宋・朱晦庵の注によれば、

騶虞、獣名。白虎黒文、不食生物者也。

騶虞は獣名なり。白虎にして文黒く、生ける物を食わざるものなり。

騶虞(すうぐ)はケモノの名前じゃ。白いトラで、模様が黒いやつのことで、こいつは生きたモノは食べない(仁愛の心が強いので)。

彼の解釈では、

―――植物であるアシが繁茂している。ところで、騶虞は仁獣であり、その騶虞のような周の文王が君主となったので、イノシシのようなドウブツもたくさん繁殖した。そこで、一発矢を射ると五匹もイノシシが獲られるようになったのだ。ああ、騶虞(のような文王)さま!

という意味の詩で、聖人である文王さまを称賛したものということになります。

後漢・鄭玄は、少し違って、

―――アシの繁茂したところで狩猟を行っている。騶虞のような仁愛のあふれる立派なひと(文王とは限らない)は、狩りをしてもケモノを採り尽さず、一発矢を射て五匹とったらそこで終わりにするのだ。ああ、騶虞(のような立派なひと)さまよ!

という解釈をしています。

しかしどちらも、ドウブツを殺さない仁獣・騶虞(のような人)が一度に五匹もドウブツを殺せてすごいな、という詩になってしまっているので、どう考えても矛盾しています。おかしい。そこで、「虞人」は周礼や孟子に出て来る森林を管理する役職である。「騶虞」の「虞」も同様に役職名で、「ドウブツたちの管理官」のことではないのか、という有力説があります。この解釈だと、

―――アシが茂り、そこで矢を一発射ただけで、五匹もイノシシが獲れたぞ。ああ、鄒虞の官の職員よ(おまえのおかげだ)!

ということになります。この解釈が一番すっきりするのではないでしょうか。

ということで、実は「騶虞」という役人はいても、そんなドウブツもいない、ということになってしまいました。

「なんだ、ということはフェイク情報か。やっぱりテレビや新聞と違って肝冷斎の引用してくることはネット情報同様信用できんな」

いや、これは寓言ですので。

正義の鳥でコケー!

 

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