令和元年8月9日(金)  目次へ  前回に戻る

飽くこと無き向上心で相撲を取るカッパ。その向上心を記念して作られた「カッパすもう大ゲーム」だ。先月作りましたが、誰にも評価されずに散佚の危機にある。

もうダメだダメだと言っているうちに明日から休みだ。しかしわしはもうダメになっているので手遅れだが。

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清の時代のことです。

わしがいろいろお世話になった家秋潭先生、

于所親家、見一硯。石質細潤良材也。

親しくするところの家にて、一硯を見る。石質細潤にして良材なり。

親しいひとの家に行ったとき、一枚の硯を見かけた。石の質は肌理が細かくてしっとりと潤っており、どうみてもこれはすばらしい材質である。

ところが、

其家不之貴、用以覆瓿、且磨刀錐、傷痕数処。

その家これを貴とせず、用うるに覆瓿(ふくほう)を以てし、かつ刀錐を磨き、傷痕数処あり。

「覆瓿」は「甕のふた」。「錐刀」(すいとう)と熟すると先の尖った小刀のことですが、ここではわざわざ「刀錐」と言っており、あとから「刀」「錐」を別に扱っていることからみて、「小刀」と「キリ」のこと、です。

その家ではこれを貴重なものとは思っておらず、甕のふたに使っていた。また刀や錐の砥ぎ石にも使っており、あちこちに傷跡があった。

(それならば・・・)

先生乞帰、名錐刀硯、鐫銘其旁。

先生乞いて帰り、「錐刀硯」と名づけ、その旁らに銘を鐫る。

先生はその硯をもらい受けて帰り、「キリとカタナのすずり」と名づけて、横面に「銘」を彫り込んだ。

その銘に曰く、

磨刀則磨。 刀を磨かんとすれば磨かん。

磨錐則磨。 錐を磨かんとすれば磨かん。

磨墨則磨。 墨を磨らんとすれば磨らん。

磨人則磨。 人を磨かんとすればすなわち磨かれん。

小刀を磨こうとするなら磨けるだろう。

錐を磨こうとすれば磨けるだろう。

そして、墨を磨ろうとすれば磨れるだろう。

それなら、人が自分を磨こうとして、磨くこともできるだろう。

思うに硯だけでなく、士にもまた不遇で認められないものがあるのである。彼は認められなくてもおのれを磨くしかないのだが、あたら人に知られぬ才能を持ちながら、刀や錐を磨くような、他の者にもできるようなことができるために、そのためにしか用いられない者もまたあるのだ。

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清・梁紹壬「両般秋雨盦随筆」巻四より。人材は使わないともったいないですから使ってくださいね。・・・いやいや、肝冷斎は使わなくてもいいですよ。明日から休んで、それからはずっと休んでしまうカモ。うっしっし。

 

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