令和元年7月23日(火)  目次へ  前回に戻る

〇ン〇マを取られてからは異様な食欲でどんどん太っていくミャーと、哲学ネコのマタタビである。

なんとまだ火曜日。清水の舞台から飛び降りたつもりで明日から無断で会社欠勤しようかなー。

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清水の舞台から飛び降りる覚悟があればいろんなことができそうな気がしますが、実際のところは

墜岸三仭人之所大難也。

墜岸三仭なるは人の大いに難しとするところなり。

三仭(じん)の崖を落ちるのは、人間にはたいへん難しいことである。

といわれます。一仭は七尺(又は八尺)のことで、古代の一尺はだいたい22.5センチメートルですから、七尺≒1.6メートルぐらい。三仭だと5メートルの見当でしょうか。

而猿猱飲焉。

而るに猿猱(えんどう)は飲めり。

ところが、サルは(その高さの崖を簡単に降りて、崖下の川で)水を飲んでいるではないか。

「猿猱」合わせて「サル」と訳してみましたが、これは実はなかなか難しいんです。猿とか猴とか猱の違いが雑然としていて、同じものかどうかも分からないので困ってしまいます。これを考証しはじめるとどれだけ時間があっても足りないので、老い先も短いし明日も出勤なので、ここではできるだけ簡単な数式に置き換えたいと思います。

「抱朴子」を閲しますと、

獼猴八百歳変為猿、又五百歳変為玃、又一千歳変為老人。

獼猴(びこう)八百歳にして変じて猿と為り、また五百歳にして変じて玃(かく)と為り、また一千歳にして変じて老人と為る。

「獼猴」は800年生きると「猿」に変化する。さらに500年生きると今度は「玃」(巨大なサルである)に変化する。さらにまた1,000年生きると老人になる。

なるほど、老人というのは長生きしないとなれないのだなあ、というのが分かりますが、それはそれとしまして、「詩経義疏」という本には、

猱獼猴也。

猱(どう)は獼猴なり。

「猱」が「獼猴」なんです。

とあるのを合わせ考えますと、「猱」=「獼猴」→(800年)→「猿」という式が導けますので、「猿」を「さる」、「猱」を「こざる」としておきます。

閑話休題。

人間さまだと威張っていてもできないことを、サルやコザルは軽々とするのである。

故曰、伐矜好専、挙事之禍也。

故に曰く、伐矜して専らにするを好むものは、事を挙ぐるの禍いなり、と。

このことから、次のように言われるのである。

「自分を過信しつねに誇るところある者は、何かの事業をするときには邪魔者にしかならないのだ」

と。

サルから始まってこの結論に至るとは、なかなか鋭いですね。

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「管子」形執第二より。「荀子」読み終わって「管子」を読み始めたんです。老い先も短いので会社行かずに読みたいなあ。

 

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