令和元年6月1日(土)  目次へ  前回に戻る

ニャニャン? どうしてこれはまだいじめてにゃいのに、逃げようとするのかニャ?

おいらは肝冷童子。昨日届いていたのは肝冷斎がアマゾンで頼んだサプリメントみたいなやつでちた。肝冷斎は頼んだまま、洞窟の奧へと逃げて行ってしまったようでちゅ。逃げ帰った方が有利なことが多いでちゅからねー。

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超古代(紀元前12世紀)のことですが、殷の紂王の時代、西の方にあった周の国がメキメキと力をつけて来た。周の文王が西部の諸侯のまとめ役として「西伯」となったのですが、その子の武王も周の公位を継ぐと同時に、「西伯」の地位に就き、三年後には驪戎と言われる蛮族を討伐して勝利した。

その報せが殷の都にも到着し、殷の紂王

「大したものじゃ。これで西方は安心じゃのう」

とお喜びになった。

そのとき、紂王の一族に祖伊という人がおりまして、「これは危うい、危うい」と

祖伊恐、奔告于王。

祖伊恐れ、王に奔告す。

祖伊は心配して、紂王のところにすぐ飛んできて、申し上げた。

そのコトバは以下のとおりである―――――――

天子、天既訖我殷命、格人元亀、罔敢知吉。

天子よ、天既に我が殷命を訖(おわ)らしめ、人の元亀(げんき)を格(か)りて、敢て吉を知ることなからしめたり。

天子さま! 天はとうとう我が殷の運命を終わらせることになさり、我らの保有する巨大なカメの甲羅によってこれからの運勢を占っても、今後いいことが起こると告げることが無くなってしまったのですぞ!

「格人」を「至ったひと」と読んで、「賢者」の意とし、「賢者の予知能力でも巨大なカメの甲羅による占いでも、今後いいことが起こると告げることが無くなってしまった」と解する説もあります。

非先王不相我後人、惟王淫戯用自絶。故天棄我、不有康食。不虞天性、不迪率典。

先王の我が後人を相(たす)けざるにあらず、これ、王の淫戯の用って自絶せしなり。故に天、我を棄て、康食すること有らず。天の性を虞(おそ)れず、率の典を迪(ふ)まざるがゆえなり。

ご先祖の代々の王の神霊が、その後継者(であるあなたさま)をお助けにならなかったわけではございませんが、ただただ、王よ、あなたさまがひどいおふざけをなさったによって、自ら断ち切ってしまわれたのです。そのため、天はわたしどもを棄てて、安心してご飯を食べることもできなくなった。(それもこれもあなたさまが、)天の本質について何もお考えにならず、規律する法典を守ろうとされなかった(、そのためなのでございますぞ)!

今我民罔弗欲喪、曰、天曷不降威、大命不摯。今王其如台。

今、我が民は喪を欲せざるはなく、曰く、「天、なんぞ威を降さず、大命摯(いた)らざる」と。今、王それをいかんせん。

今や我が殷の民衆は、みな滅亡を願っているのでございますぞ! そしてこう言っておるのです、

「天はどうして怒りを下さないのか(紂王のもとで暮らすより国家が滅んだ方がましだ)、大いなる運命を背負われた方がまだ現れないのはどうしてか」

と。王は、この状況に対していかがなさるおつもりですか!」

「今、王それをいかんせん」のところを「今、王それいかん」と読んで、「今やもう王なんかどうでもいい」と民衆が言っている、とする説もあります。

―――――― 王は答えて言った、

嗚呼、我生不有命在天。

嗚呼、我が生は、命天に在るにあらずや。

「ああ、わしの人生の命運は、天に決められるのではないのか?(民衆ごときに何ができるものか。)」

祖伊反曰、嗚呼、乃罪多参在上、乃能責命于天。殷之即喪、指乃功。不無戮于爾邦。

祖伊反して曰く、嗚呼、乃(なんじ)の罪は多く参(つら)なりて上に在り、なんじよく命を天に責めんや。殷の喪わるるに即く、なんじの功(こと)を指(しめ)さん。爾の邦において戮(ころ)さるること無からざらん。

祖伊はおそらく正直ないいひとなのでしょう、どんどん興奮してきたみたいで、二人称が「王」から「乃」に変わりました。

祖伊は反論して言った、、

「ああ、おまえさまの罪はもうあまりにもたくさん天上に報告されておるのじゃ、おまえさまはもう天の与えた運命が悪いのだ、とかいうことはできんぞ! 我が殷の国が亡びるとき、おまえさまのやったことは明らかに指摘される。あなたさまが、御自分の国で殺されないことは無いでありましょうぞ!!」

以上で会話はおしまい。しかし、相手の前でこれはヒドイ。

「なんでそんなひどいこと言うんじゃ!」

しかも相手は暴虐を以て有名な紂王さまです。お怒りになられて、きつい罰を加えられたのが当然だと思うのですが、祖伊はどうして残虐にコロされたり追放されたりしなかったのか。他に諫言をした比干や微子はそうされているのに・・・。

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「尚書」(書経)商書「西伯戡黎」(殷の時代の記録文書「西伯、黎に戡(か)つ」です。「西伯」はここでは武王と解しましたが、おやじの文王のときのことだ、とか、「黎」はここでは驪戎と解しましたが、春秋の時代の都市国家「黎」と同じ場所にあった都市だ、とか、いやいや別の国やねん、とか、いろいろ説があります。調べてみるとオモシロいと思いますが、何時間かオモシロがって調べて、ふと我に返ると、「わしは何をしておったのじゃ、この時間にもっと大切なことができたのでは」と虚しくなってしまうと思いますので、お奨めはしません。

ところで、この章はほぼそのまま、「史記」「殷本紀」にも出てくるのですが、「史記」の記述では、上記の以下が、

祖伊反曰、紂不可諫矣。

祖伊反(かえ)りて曰く、紂は諫むべからず、と。

祖伊は(「むむむ!」と黙り込んだまま紂王の前から逃げ出し)帰ってきて、言った。

「紂のやつには、もう何を言ってもムダじゃ!」

これだと帰ってきてから言ってるだけで、紂王の前でひどいこと言ってないので、お怒りになられなかったのも当然であろう。

・・・というか、「祖伊」という名前の付け方が殷の他の例(「伊」のところに普通は十干のいずれか(甲とか乙とか)が入るのが殷の命名法)から言ってありえないこと、文章が殷はもちろん周の時代としてもあり得ず、おそらく漢代に書かれたものであること、などから、この章自体「デッチアゲ」であるとの説が濃厚ではあるのですが。

 

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