令和元年5月16日(木)  目次へ  前回に戻る

なんでも一芸に秀でるためにはたいへんな努力をしなければならない。モグもカレーライスについてはぶたをも上回る努力をしているようである。

まだ木曜日。山中から一歩も出ずに、昼寝したり飯食ったりごろごろしたりした。

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元のひと、巙巙(きき)さまは字を子山といい、正斎、恕叟、あるいは蓬累叟と号した。康里(カングリ)部(トルコ系の一派)の出身で、色目人官僚として翰林院にもあり、平章事(宰相)も務め、多くの文化政策を企図してモンゴル皇帝に信頼された大政治家で、何より、元一代を代表する能書家で、宋の皇室出身の趙松雪道人・趙孟頫と並称される文化人であられます。

そのひとと、

一日、与余論書法。

一日、余と書法を論ず。

ある日、わたくしと、書道について語り合うことがあった。

話の中で、巙巙さまから、

及叩有人一日能写幾字。

人、一日によく幾字を写する有るか、叩くに及べり。

「人間が一日に何文字書けると思いますか」と質問されたことがあった。

え? そ、そうですね・・・」

余曰、曾聞松雪公言一日写一万字。

余曰く、かつて松雪公、一日に一万字を写せりと言うを聞けり。

わたしは申し上げた。

「以前、趙松雪さまが「わしは一日に一万字書いたぞ」とおっしゃたのを聞いたことがございます。それぐらいが限界かと・・・」

「ああン? 松雪山人で一万字?」

巙巙さまは首をおひねりになり、

余一日写三万字、未嘗輟筆。

余、一日に三万字を写し、いまだ嘗て筆することを輟(や)めず。

「わたしは一日に三万字を書いて、それでも書くのを止めることはございませんでしたがなあ」

とおっしゃった。

「へー」

余竊敬服之。

余、竊(ひそか)にこれに敬服す。

わたしは心の中でこのことに敬服したものである。

凡学一芸、不立志用工、可伝遠乎。

およそ一芸を学ぶに、志を立てて工を用いるにあらざれば、遠きに伝うべけんや。

(この場合は書道ですが)どんなことでも一芸を学ぶにあたって、強い志を持って努力しなければ、遠方まで名が届くようなことにはならないのであろう。

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元・楊瑀「山居新語」より。文中「わたし」というのは肝冷斎と違って楊瑀さんです。楊瑀さんは字・元城、浙江杭州のひと。元・文宗のときに太史院判官となり、さらに後にはいわゆる南人ながら浙東道宣慰使都元帥という地方の長官にまでなり、引退後は元末の群雄たちとも折衝のあった方ですので、こんな偉いひととも会話していたようです。さすがにこのレベルの高官がドウブツと一緒に冬眠しているような一介のやる気無し人間の肝冷斎と会話することはありえません。

三万字だと四百字詰め原稿用紙(←こんなモノ、まだあるんですかね)で七十五枚である。一日中文字を書いていたても、午前中は

「まあまだ時間あるからうだうだやりまちょうかね」

昼飯食ってひと眠りして、

「さあやりまちゅよー」

とやっとがんばってもなかなか進まず、夕方ぐらいにやっと一万字ぐらいまで来て、そのあたりで

「うぎぎー!! 刀筆の吏がどうたらこうたらー!」

と筆も紙も投げ出して、逃げ出してしまうのが普通であるが、昔のひとは偉かったんだなあ。

 

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