平成31年2月28日(木)  目次へ  前回に戻る

アンパン、ジャムパン、クリームパン、チョコパン、こしあんパンなど、食べまくる炭水化物ライオンだ。どこかの国の人民は飢えているのになあ。

今日は米国大統領と北朝鮮のエライひとがハノイで会った、ということである。そこでハノイのお話をしてみます。

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古法州の延蘊郷というところの木棉の木にカミナリが落ちました。

黒こげになった木の幹に、文字のような痕がついていて、読んでみると、

禾刀木落、十八子成、六七年間、天下太平。

禾方木落ち、十八子成り、六七年間、天下太平とならん。

と読めた。

村人らが「これはどういう意味じゃ?」と騒いでいると、一僧がやってきて、曰く、

禾方木、黎字也。十八子、李字也。経六七年間、而天下平矣。

禾・方・木は黎字なり。十・八・子は李字なり。六七年間を経て、天下平らがん。

「禾、方、木を書けば「黎」の字になる。十、八、子と書けば「李」の字になる。六七年もすれば、黎氏が李氏に取って代わられて、今の乱れた世の中が治まることになるのであろうなあ」

と解き明かしてくれた・・・。

それから数年後、臥朝皇帝(痔疾のため座ることができず、臥して朝廷を開いたので、このように呼ばれたという。)と呼ばれた黎龍鋌が崩御すると、群雄の中のひとり、李公蘊が自ら帝位に即いた。これが李朝大越国の太祖であり、その年を以て順天と建元したのであった。(順天元年は宋の大中祥符三年ということであるから、西紀1010年である)

順天元年七月、

帝自華閭城徙都于京府大羅城、暫泊城下。

帝、華閭城より都を京府大羅城に徙し、暫く城下に泊せり。

太祖帝は本拠地であった華閭から、都を京府大羅城に遷すこととし、宮殿ができるまで、付近の川上の船に起居しておられた。

ある晩、

黄龍見于御舟、因改其城曰昇龍城。

黄龍、御舟に見(あら)われ、因りてその城を改めて「昇龍城」と曰えり。

黄色い龍が現れ、御座船から見えたので、この町の名を改め、「昇龍」(たいろん)と名づけたのである。

これが後のハノイ(河内)の地に、都が置かれた初めなのでございます。

ところがこのとき、太祖帝は、

宗廟未建、社稷未立、先創立八寺、又重修諸路寺観、而度京師千余人為僧。則土木財力之費、不可勝言也。

宗廟いまだ建てず、社稷いまだ立たず、まず八寺を創立し、また諸路の寺観を重修し、京師の千余人を度して僧と為す。すなわち土木・財力の費(ついえ)、言うに勝(た)うべからざるなり。

ご先祖さまのおたまやもまだ建てず、土地と耕作の神さまの神殿もまだ建てないうちに、お寺を八つも立てたのである。各地方のお寺の修理もたくさんしたし、新しい都で千人あまりのひとに、僧侶となることを許可したのだ。土木建築費と寺院の運営費による出費は、言うこともできないほどであった。

財非天雨、力非神作、豈非浚民之膏血歟。浚民之膏血、可謂修福歟。

財は天の雨ふらすにあらず、力は神の作すにあらざれば、あに民の膏血を浚うにあらざらんや。民の膏血を浚いて、福を修むと謂うべけんや。

資金は天から雨となって降ってくるわけではないのである。労力は神さまがやってくれるというわけではないのである。そうであれば、人民の肉と血をかき集めてきたものでなくてなんであろうか。人民の肉と血をかき集めておいて、ホトケさまと幸福の約束をすることができるはずはないのだ。

本来初代の君主は倹約でなければならない。子孫になればなるほどゼイタクをするのであるからである。ところが太祖はこのような先例を示したのであるから、後世、仏殿のみ壮大佳麗となって、宮殿以上のものになったのである。

そして、

下皆化之、至有毀形易服、破産逃親、百姓大半為僧、国内到処皆寺。

下、みなこれに化し、形を毀し服を易え、産を破り親から逃ぐる有るに至り、百姓大半僧と為り、国内到る処みな寺なり。

しもじもまでみんなこれに倣って、髪の毛を剃って見た目を変え、服を袈裟に着替え、家の財産を使い果たし、肉親と縁を切ってしまうようになった。人民の大半は僧侶となってしまい、国のうちのいたるところ、すべて寺院が建っている、という状況になってしまったのである。

其源豈無所自哉。

その源はあによるところ無からんや。

こんなことになってしまった原因は、無いというわけではなかったのである(太祖皇帝のせいだったのである)。

と後世の史家をして歎かしむることとなるのでありました。

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「大越史記」巻二・李紀・太祖皇帝より。これがハノイが首都となったときの記事なんです。そしていまも人民の膏血で、独裁者は肥え太っているのであろうか。

 

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