平成31年2月1日(金)  目次へ  前回に戻る

扇子は肝冷斎よりは役に立つのでぶー。肝冷斎はモグ、ナマケモノ、コアラと同じぐらいでぶー。

洞穴の中で冬眠していますと、ときおり悪夢を見ることがある。今日の昼間の夢の中では、かつての職場の上司・先輩・同輩、さらに後輩や部下まで現れてわしを取り囲み、

「昼行燈に肝冷斎、冬の扇に夏火鉢、一番役に立たないのはどーれだ?」

と囃し立てるのです。かつての部下が、

「ほかの三者はやがて時が経てば役に立つときがくるが、肝冷斎、おまえには役に立つ時が無いのだ!」

と激しくののしり、みなで「わははわはは」と嘲笑う・・・

という夢を見て目を醒ましました。ああよかった。もう今では世俗の世界とは関係がありませんので、みなさんに何を言われてもどうでもいいや。うっしっし。

結論として、扇は世俗的には肝冷斎よりは役に立つものなのです。

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江戸時代の初めごろのことなんですが、扇に何かを書いてくれ、というので書くことにします。何を書こうかな。

この扇は、

一方濃紫一掃、一方淡黒一掃。他更無物色。

一方濃紫一掃し、一方淡黒一掃す。他にさらに物色無し。

片方の面は濃い紫色で一掃けしてあり、もう一面は薄いで一掃けしてある。それ以外、ほかに何の模様も無い。

という謎めいた扇である。

この扇を持って来て、

有客向予、覆手則視一道之紫気。老耼至于此乎。

客有り、予に向かいて、手を覆せばすなわち一道の紫気を視る。老耼ここに至れるか。

ひとがやってきて、わしに向かって手のひらを下にした―――すると、一すじの紫の気が見えた。「老子」を書いた賢者・李耼がやってきたのか。

老子(李耼)が周の世が衰えていくのがイヤになりまして、函谷関を出て西に向かうことにしたとき、函谷関の関令・尹喜が、東方から(紫の)気が近づいてくるのを見て、

「聖人がやってくる」

と言いまして、老子を待ち受けて、お願いして「老子」の書を書いてもらった、という伝説に基づいた記述です。「東来紫気」という四字熟語になって「老子が教えを垂れてくださる」とかより一般化して「(東から)高貴なひとがやってくる予感」という意味に使われます。(以下すごい蛇足ながら、老子が函谷関を通って西域に亡命することは「史記」老耼伝に出てくるのですが、「史記」には下線部に当たる記述がありません。歴代の仙人の伝記である「列仙伝」関令尹伝には、東方から気が近づいてくるのを見たことは書いてあるのですが、その気が何色であったかは記述が無く、「紫」であったかどうかわかりません。しかし「東来紫気」という熟語になっているので、どこかで「列仙伝」の記述に「紫」を足したひとがいるはずなんですが、ちょっと今のところわかりません。少なくともこの文章が書かれた17世紀の初めごろには、もう「紫」であったことになっていたようです。)

翻手則吹五里之霧。公超隠於此乎。

手を翻せばすなわち五里の黒霧を吹く。公超ここに隠れたるか。

今度は手のひらを上にした―――すると、五里にわたって黒い霧が広がった。後漢の術者・張公超がそこに隠れていたのか。

これは「五里霧中」の故事が使ってあるのがすぐわかりますね。

「後漢書」張楷伝にいう、張楷、字は公超は、

性好道術、能作五里霧。時関西人裴優亦能爲三里霧。自以不如楷、従学之。楷避不肯見。

性として道術を好み、よく五里の霧を作す。時に関西人・裴優またよく三里の霧を為すも、自ら以(おもえ)らく「楷に如かず、従いてこれに学ばん」と。楷、避けてあえて見(まみ)えず。

生まれつき道家の術を好み、五里にわたって霧を造る術を知っていた。同じころ、函谷関より西の地方の裴優という人も、三里にわたって霧を造る術を使えたが、どうも考えるに「張楷どのにはかなわないようじゃ。彼について学びたい」とやってきたのだが、張楷は彼を避けて会おうともしなかった。

このように振る舞っていたのですが、後、この裴優が賊を為して捉われ、自らの術は張楷に教わったのだ、と誣告したので、張楷も獄に繫がれたことがあった。この間に書経の注釈を著して桓帝(在位146〜167)に奉り、許された後は隠棲して仕えなかったという。

なお、「後漢書」の記述からは、霧の色が「黒」であったかどうかは判然しません。

揺手一揮、則起九万里之風。蒙荘逍遥于此乎。

手を揺るがしてひとたび揮えば、すなわち九万里の風を起こす。蒙荘ここに逍遥せるか。

手をゆらゆら揺らせてぶるんと振った―――すると、九万里の高い空に(鵬を浮揚させるような)大いなる風が起こった。戦国時代に宋の蒙の地で漆畑の管理人をしていた荘周がこのあたりをふらふら彷徨っていたのか。

これは「荘子」逍遥游篇より、巨大な鳥・鵬は、羽ばたいて空を飛ぼうとするのだが、あまりにも巨大なので空気の厚さが足らないと彼を浮かすことができない。

九万里則風斯在下矣。

九万里なればすなわち風、ここに下に在り。

高さ九万里まで昇れば、その翼を支える風を生み出す空気の厚さが、下にできる。

というのを引いています。

さて、そのひとが、

放手一擲、則忽作一扇、而落予前。

手を放ちて一擲すれば、すなわち忽ち一扇と作りて予の前に落ちたり。

手をはなして投げ捨てると―――なんと、一本の扇が現れて、わしの前にぽとりと落ちたんじゃ。

ということで、一面に紫、一面に黒、そして風を起こすことのできるもの、扇であったのだ。

奇哉奇哉、一扇化三仙歟、三仙化一扇歟。扇与仙必有分、是之謂物化。

奇なるかな、奇なるかな、一扇の三仙に化せるか、三仙の一扇に化せるか。扇、仙と必ず分有り、これ、物化の謂いなるか。

不思議なことだなあ、不思議なことだなあ。一本の扇が(老耼・張楷・荘周の)三人の仙人に化けていたのか、それとも三人の仙人が一本の扇に化けていたのだろうか。扇と仙人はもちろん別物のはず、だから、これこそ物質を変化させるという仙術だということか。

世之言神仙者、蓋其然乎、豈其然乎。

世の神仙を言うは、けだしそれ然らんか、あにそれ然らんや。

世間で神仙のことをいろいろ言うが、つまりそれはこのように実在することなのだろうか、いやいや、実在することがあるものか。

なんと、結局実在しないんですか。

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藤原惺窩「題扇面」扇の面に題す)(「今古三十六名家文抄」より)。

結以冷語、破其妄、有無限妙趣。

結ぶに冷語を以てして、その妄を破るは、無限の妙趣有り。

最後の結論に突然冷静なコトバを持ってきて、そこまでの妄想を破砕する。限りない味わいのある文章だなあ。

と評される。

すばらしい。洞穴の中にいるので、こんな不要不急の文章も読んでいられるんです。世俗のみなさんは役に立つことばかり学んでおられて、たいへんですなあ。わははははは。

 

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