平成30年12月4日(火)  目次へ  前回に戻る

ナマケることさえナマケてしまい、ときどき木から落ちてしまうというナマケモノである。たとえ星が墜ちてきても、どうでもいいであろう。

今日は十二月というのにたいへん暑かった。深夜ですがまだムシムシする。何か恐ろしいことの前触れでなければよいのじゃが・・・。

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はいはい、そんなことを言うひとは多いですなあ。

星墜木鳴、国人皆恐、曰、是何也。

星墜ち木鳴れば、国人みな恐れ、曰く、「これ何ぞや」と。

星が落ちたり、木が不気味な音を立てれば、市民たちはみな不安になって言うだろう、「これは一体何ごとだろうか」と。

答えて言います。

無何也。

何ごとも無きなり。

何ごとでもありません。

これは、

天地之変、陰陽之化、物之罕至者也。怪之可也、畏之非也。

天地の変、陰陽の化、物のまれに至るものなり。これを怪しむは可なるも、これを畏るるは非なり。

天地の間の変化、陰陽の化成によって、物理的に珍しい状態に至ったものなのである。これらの事象を不思議に思うことはあっても、不安がることはない。

ほかにも、

日月之有食、風雨之不時、怪星之党見、是無世而不常有之。上明而政平則是雖並世起無傷也。

日月の食有る、風雨の時ならざる、怪星の党(たまさか)に見(あらわ)るるは、これ世にして常にこれ有らざること無し。上明らかにして政平らかなれば、これ世に並びて起こるとも傷む無きなり。

日と月に食があり、風や雨が急に吹き降り、怪しい星がときおり現れる―――これらは、世の中に、いつだってあり得ないことではない。上層部が明晰で、政治が公平であれば、これらがいくつ並び起こっても心配することはないのだ。

一方、

上闇而政険、則是雖無一至者無益也。

上闇にして政険(かたむ)けば、これ一の至るもの無しといえども無益なり。

上層部が暗愚で、政治が不公平であれば、この中の一つも起こっていないからといって、それがいいことであるわけではない。

そんなことよりも、

物之已至者、人祅則可畏也。

物のはなはだ至れるものは、人祅はすなわち畏るべきなり。

物事の大きな問題としては、「人祅」(ひとの起こしたわざわい)というものこそ、畏れるべきものである。

「人祅」とは次のような場合なんだそうです。

1.    楛耕傷稼、耘耨失歳、政険失民、田薉稼悪、糴貴民飢、道路有死人、夫是之謂人祅。

楛耕(くこう)稼を傷め、耘耨(うんどう)歳を失い、政険しくして民を失い、田薉(わい)して稼悪く、糴(てき)貴にして民飢え、道路に死人有る、それこれを「人祅」と謂う。

耕作方法に失敗して収穫物を傷つけ、草取りを誤って収穫を失ってしまい、政治が不公平で人民は信頼せず、水田は汚れてしまって収穫は悪化し、食糧を買い付けようとすると値段が上がって人民は飢餓に陥ってしまい、街道沿いには死者が転がっている。これが「ひとの起こしたわざわい」というものである。

2.政令不明、挙措不時、本事不理、夫是之謂人祅。

政令明らかならず、挙措時ならず、本事理(おさ)めず、それこれを「人祅」と謂う。

政府の命令がはっきりせず、行動の指示が時節を失い、本業である農業がうまくいかない。これが「ひとの起こしたわざわい」というものである。

3.礼義不脩、内外無別、男女淫乱、則父子相疑、上下乖離、寇讎並至、夫是之謂人祅。

礼義脩まらず、内外別無く、男女淫乱し、すなわち父子相疑い、上下乖離し、寇讎並び至る、それこれを「人祅」と謂う。

社会規範や道義が守られず、社会と家の中の区別が無くなり、男女が乱れた交際をし、これらのために家庭内で疑いあい、社会の上層部と下層部は目的を一にせず、侵略者や敵対者が次々に現れる。これが「ひとの起こしたわざわい」というものである。

もっとありそうな気もしますが、とりあえずこの三種の「人祅」があるんだそうです。

祅是生於乱、三者錯無安国。其説甚迩、其菑甚惨。

祅はこれ乱に生じ、三者錯(まじわ)りて安国無し。その説はなはだ迩(ちか)きも、その菑(わざわい)甚だ惨なり。

わざわいは、世の中の乱れから起こり、上記の1〜3が複雑に絡み合って国家に安定感が無くなるのである。この説明はたいへん身近であるが、惹き起こされる災害はたいへん大きいものとなるのだ。

以上、天地とニンゲンの「怪しげなこと」について述べましたが、そのほか、

勉力不時、則牛馬相生、六畜作祅、可怪也。而不可畏也。

勉力時ならざれば、牛馬相生じ、六畜祅を作して怪しむべきなり。而して畏るるべからず。

人民を働かせるのに時節を失えば、牛や馬が乱れ生まれ、そのほかヒツジやイヌ、ブタ、ニワトリも怪しげなことを起こして不思議に思うことがあるであろうが、不安になる必要はない。

いにしえの「伝」(解説書)にはこんなふうに書かれている。

万物之怪、書不説、無用之弁、不急之察、棄而不治。

万物の怪は書に説かず、無用の弁、不急の察は、棄てて治めず。

いろんなものが不思議なことを起こしても、それらは経典には書かれない(あまり意味が無いからである)。不要な議論、後回しにすべき発見などは、放棄してしまってよく、理解する必要はない。

と。

しかし、

若夫君臣之義、父子之親、夫婦之別、則日切磋而不舎也。

もしかの君臣の義、父子の親、夫婦の別は、すなわち日に切磋して舎(お)かざるなり。

君臣の間のけじめ、親子の間の関係、夫婦の分担といったことは、毎日修行して怠ることがあってはならない。

天変だとか地異だとかそれを分析してああだこうだとか、そんなことはいにしえの賢者たちは問題にしなかった。彼らには毎日のニンゲン関係の秩序の方が重大な問題だと、わかっていたからである。

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「荀子」巻十一「論天篇十七」より。ということで、冬に夏のように暖かくても恐れることは無いので安心です。さらに「人祅」してても、上明らかにして政平かであるから大丈夫だ。大丈夫なはずだ。多分大丈夫であろう。おそらく。

 

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