平成30年11月13日(火)  目次へ  前回に戻る

毎日食いすぎである。反省してもまた食いすぎる。どうなっているのか。

今日も何にもしたくなかった。そしてほとんど何もしませんでした。しかし、昼飯たらふく食って、お菓子も食って、夜に宴会があって、またたらふく食った。

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「易」頤卦象伝に曰く、

山下有雷、頤。

山下に雷有るは「頤」なり。

☶(昆)は山の象形であり、☳(震)は雷が落ちてくる象形である。上が☶、下が☳の卦は、山があってその麓に雷が鳴る姿であるが、これは「頤」(い)という。

「頤」は「アゴ」のことです。☶☳で一番上と一番下に陽の爻があり、その間が空っぽ(陰)になっているので、上あごと下あごで何かを食べようとしている状態を示す。

この卦のすがたを見て、

君子以慎言語、節飲食。

君子は以て言語を慎しみ、飲食を節す。

立派なひとは、(口から出る)コトバを思慮深く考え、(口から入る)飲み物食べ物を節制にするのである。

みなさんもこうしてくださいねー。

・・・というのが、易象伝に結実した古えの賢者たちの教えなのである。

だが、昼も夜も食いまくってしまったのです。また、夜はキモチよく酔っていい加減なコトバをたくさん言ってしまいました。情けない。

宋の伊川先生・程頤(「頤」が名前になっています)の「伊川易伝」にいう、

君子観其象以養其身、慎言語以養其徳、節飲食以養其体。

君子はその象を観て以てその身を養い、言語を慎んでその徳を養い、飲食を節してその体を養うなり。

立派なひとは、まずその卦の「口」の形を見て、自分自身を豊かにしようと考える。そのためには、コトバを思慮深く使って徳を豊かにし、飲み物食べ物を節制して身体を豊かにするのだ。

それだけではないんです。

不唯就口取養義、事之至近而所繋至大者、莫過於言語飲食也。

ただに口に就きて養うの義を取るのみならず、事の至りて近くして繋がるところの至りて大なるものは、言語飲食に過ぐるなきなり。

口から出るもの入るものによって自分を養う、という意義があるだけではない。たいへん身近な物事で、実はたいへん大きな問題に関係しているのは、コトバと飲み物・食べ物以上のものなどないのである。

どこまで関係するかといいますと、

在身爲言語、於天下則凡命令政教出於身者皆是、慎之則必当而無失。

身に在りては言語と為すも、天下においてはすなわちおよそ命令・政教の身に出づるものみなこれにして、これを慎しめば必ず当たりて失うこと無し。

自分自身にとっては単なるコトバであるが、社会全体においては、命令とか政治的な発言などひとから出される言語はすべてこれなのだから、これを思慮深くすれば、政治的な判断は必ず適正になされて、間違うことが無くなるはずなのだ。

在身爲飲食、於天下則凡貨資財用養於人者皆是、節之則適宜而無傷。

身に在りては飲食と為すも、天下においてはすなわちおよそ貨資・財用の人に養わるるものみなこれにして、これを節すれば適宜にして傷む無し。

自分自身にとっては単なる飲み物・食べ物であるが、社会全体においては、物資とか財政上の資源など人民が生み出す生産物はすべてこれなのだから、これを節制すれば、資源の適切な利用がなされ、窮乏する人はいなくなるはずなのだ。

天下の政治・行政、経済・福祉にも関わることなんです。

惟養之道、養徳養天下、莫不然。

これ養の道は、徳を養い、天下を養い、然らざることなし。

ああ、「顎」の卦が示す「養う」ということは、自らの心を豊かにし、天下を豊かにする、そういうものなのである。

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なのですが、コトバを慎しみ飲食を節制することなどできません。若いころから、反省しても反省しても繰り返すのであるから、もう気にするだけムダである、とも思われるのだが、今日もまた反省のコトバを述べておきます。情けない。

 

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