平成30年4月2日(月)  目次へ  前回に戻る

恐るべき三人の忍者、火薬のカエル、智慧のモグ、鎖がまのブタ。敵にはそうではないが味方には恐怖の的である・・・みたいなやつらのことを考えていると、シアワセになる。優越感を感じるからであろうか。

昼間は暑いぐらいになってきました。なんとか月曜日終わった。ああ充実しているなあ、退社後は。

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鰒魚とはどういう魚でしょうか。

鰒似蛤、偏著石。(晋・郭璞「三蒼注」)

鰒は蛤に似、偏えに石に著す。

鰒はハマグリに似ているが、一方は石に密着している。

鰒無鱗有殻、一面附細孔雑雑、或七或九。(「廣志」)

鰒は鱗無くして殻有り、一面に細孔附して雑雑たり、あるいは七、あるいは九あり。

鰒にはウロコが無いがカラが有る。一方の側に小さな穴があって、ごちゃごちゃしており、穴の数は七か九である。

と書いてありますので、なんとなく想像ついたんではないでしょうか。

北斉の顔之推曰く、

即石決明。

即ち石決明なり。

つまり、石決明のことである。

石決明は、

肉旁一年一孔、至十二孔而止、以合歳数。登州所出、其味珍絶。

肉旁に一年一孔し、十二孔にして止むは以て歳の数に合す。登州の出だすところ、その味珍絶なり。

肉の横から一年に一つずつ穴が開いて、十二穴までいくと止まる。木星が黄道を一周する年数である十二と合致するのである。山東の登州に産出するものは、その味、他に無いすばらしさである。

なんのことか、わかってきましたよね。

これは「アワビ」なんです。

このアワビというもの、

漢以前未聞其貴、至王莽欲敗時、但飲酒啗鰒魚。

漢以前にはいまだその貴を聞かず、王莽の敗れんとするの時に至りて、ただ飲酒して鰒魚を啗う。

漢代以前(の春秋戦国のころ)には、これをありがたがるという記録は無い。ところが、前漢を簒奪して新帝国(9〜23)を建てた王莽が滅びかけたころになると、王莽はただ酒を飲みアワビを食べてばかりいたそうである。

さらに

光武時、張歩拠青徐、遣使詣闕上書、献鰒魚。又臨淄太守呉良賜鰒魚百枚、則両漢時已自珍之。

光武の時、張歩の青・徐に拠るに、使いを遣わして闕に詣らしめ、書を上(たてまつ)り鰒魚を献ず。また、臨淄太守呉良、鰒魚百枚を賜うといえば、すなわち両漢の時すでにおのずからこれを珍とせり。

新から政権を奪い返した後漢の光武帝(在位25〜57)の時代に、山東に拠点のあった張歩は、洛陽の宮中に使者を遣わして、文書を持って行かせるとともにアワビを献上した、ということである。また、臨淄の太守であった呉良がアワビ百個を人に贈った、という記録もあるので、前漢から後漢にかけては、どうやらアワビをすばらしい食べ物と評価するようになっていたらしい。

さて、そのようにひとびとに嗜好されるようになったアワビですが、

宋時淮治北属、江南無復能得。或有間関得至者、一枚直数千。

宋の時、淮治北に属し、江南またよく得ること無し。あるいは関にフ有りて至るを得るもの、一枚の直、数千なり。

時代が下って南宋の時代になると、淮水あたりの地は北の金国に所属してしまっていたので、アワビが江南にまで送られてくることはほとんどなくなってしまった。たまに両国の間の国境警備が緩んで輸入されてくるものがあると、その値段は一個で銭数千枚という途方も無いものであった。

ところが、

今則視為常品、往往乾之、以百枚為一串、用餉京貴。

今はすなわち視ること常品と為し、往往にしてこれを乾して、百枚を以て一串と為し、用って京貴に餉(おく)る。

現代では、当たり前のモノ、という扱いになっており、これを干し物にして、百個を一串でつないで、都(北京)のおえら方への贈り物にすることが多い。

もちろん「現代」は現代ではなくて、明の時代です。

物之貴賤、有時如此。

物の貴賤は時にかくの如き有り。

モノがある時に尊ばれ、ある時にはいい加減に扱われるのは、このようなものである。

あなたもガマンしてマジメにやっていると、いつか日の目を見て貴ばれることがあるのカモ。

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明・焦g「焦氏筆乗」続集巻四より。いやー、こういう考証もの読んでいるときは本当に人生充実している気がします。特に他のひとが知ら無さそうなことだったりすると、ぶるぶる震えるぐらいうれしいキモチになります。みなさんもなりますよね?。毎日こんなの読んで、いくつかに一つぐらいを人に教えてやってニヤニヤしていられたらシアワセな人生といえるんだがなあ。しかし実は平日なので今日もシアワセではなかった。明日も・・・。

 

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