平成30年3月28日(水)  目次へ  前回に戻る

ニワトリも決して天性から有能なわけではないのである。

毎日「ツラい」とか「イヤだなあ」と書いてきましたが、今日からは「楽しいなあ」「やりがいがあるなあ」で締めることにします。読者のみなさまにおかれては、肝冷斎が「楽しいなあ」と言っているときはいよいよ追い込まれたときなのだなあ、と推測してください。

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元の終わりごろのことなんですが、浙江・松江の鐘山に行き、そこの浄行庵というお寺に泊まったとき、

見籠一雄雞置于殿之東簷。

一雄雞を籠して、殿の東簷に置くを見る。

一羽の雄鶏を籠に入れて、建物の東の軒先に置いてあるのを見た。

「これは何のためのものなんですか」

と訊いてみましたところ、僧侶が言うには、

蓄此以司晨、蓋十有余年矣、時刻不爽。

これを蓄えて以て晨を司らしむること、けだし十有余年なるも、時刻爽(たが)わず。

「こうやってニワトリを飼って朝を告げさせるんです。もうかれこれ十年以上になりますが、時刻を間違わずに毎朝必ず鳴いてくれるんですよ」

「へー、そうなんですか」

ほんとかなあ。

確かにニワトリは朝が来たのを告げる、というのは古代以来の書物に書いてありますから、誰もが信用していることであるが、

未必然也。或天寒雞懶、至将旦而未鳴。或夜月出時、隣雞悉鳴。大抵有情之物、自不能有常而或変。

いまだ必しも然らず。あるいは天寒にして雞懶(おこ)たり、将旦に至るもいまだ鳴かず。あるいは夜、月出づるの時、隣の雞、悉く鳴く。たいてい有情の物、自ら常有ることあたわずして或いは変ず。

いつもそのとおりだ、とはいえない。反例として、一つはきわめて寒い季節になるとニワトリが起きだすのを嫌がって、朝日が出るまで鳴こうとしないことがある。また、夜、月が出たのを見て、隣家のニワトリがみんなで鳴きだしたことがあった。

たいていの心を持つドウブツは、自らを常に一定に律していることができなくて、どんどんイレギュラーな行動をとるものである。

そこで、僧侶に訊いてみた。

「本当に毎朝毎朝、一時もたがわないのですか」

「うーん」

僧侶が答えて言うには、

司晨之雞、必以童。若壊其天心、豈能有常哉。

司晨の雞は必ず童を以てす。もしその天心を壊(こぼ)たば、あによく常有らんや。

朝を告げるニワトリは、必ずまだ若く幼いものでなければならない。もし天が与えたままの子どもの心を無くしていたら、どうして毎日同じでいられるだろうか。

なるほど、いかに古代以来の考えであっても、観察によって覆されることがあるのだ。

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元・陶宗儀「南村輟耕録」巻二十四より。古来の定説を打ち破る大発見である。ああ楽しいなあ。

 

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