平成30年1月29日(月)  目次へ  前回に戻る

ぷかぷかと池の中に浮かぶ巨大アヒル。このような態度のでかいやつらが歴史を作っていくのであろう。

誰も更新するやつがいません。「誰かいないか・・・」と肝冷斎の跡地近くを探していたら、ナゾの老人がいたので、「おまえが更新しろ」と言いますと、「え、わしが?」と驚いた様子でしたが、とにかくやらせることにしました。

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困りました。このじじいめに更新しろ、とは・・・。

そうそう、みなさんは浙江・会稽の劉東陽を御存じかな。明の萬暦辛巳(1581)、浙江で兵乱を起こしたあの逆賊のことじゃ。

その部下たちを捕らえてきつく拷問したところでは、

皆劉実為倡。

みな、劉は実に倡たり。

どいつもこいつも、劉東陽はもともと役者上がりだ、というのであった。

役者あがりで、変装はお手のモノであったらしい。

北京政府は少司馬の張佳胤を遣わして叛乱者の鎮撫に当たらせた。

張は部下たちを捕らえてもしようがない、

以巨魁不殲、無以懾衆心。而下車即議剿、又恐激変、乃密訪首乱者、陽尊寵之。

巨魁を以て殲(ころ)さざれば、以て衆心を懾(おさ)むること無し。而して下車して即ち剿を議すれば、また激変あるを恐れ、すなわち密かに首乱者を訪ずれ、陽にこれを尊寵す。

ボスたちを殺し尽さねば、人民大衆の心を納得させることはできまい、と考えていた。一方で、到着してすぐに武力鎮圧を論ずれば、(すでに収まっているグループも含めて)激しい抵抗に遭うことも予想されたので、まずは秘密裡に叛乱側の首謀者たちと会合し、表向き彼らを尊重するそぶりを見せたのである。

「朝廷も意外とちょろいものだな」

と首謀者たちは張の招きに応じて集まってきた。もちろんその中に劉東陽もいたのだが、

劉独心疑之。

劉、独り心にこれを疑えり。

劉はただひとり、心の中では張佳胤の真意を疑っていたのである。

ほかの連中と一緒に舟に乗って張の待つ城内に向かう途中で、

忽堕水中。

忽ち水中に堕つ。

突然、川に飛び込んだのであった。

「劉東陽だけは逃がすな」

張佳胤は部下たちにきつく命じたが、結局その死体も見つからず、

差以劉死報。

差するに劉の死を以て報ず。

朝廷への公式文書には、劉は死んだと報告した。

ところが劉は死んではいなかったのだ。

伏水三日、潜逃寧夏。

水に伏すること三日、潜かに寧夏に逃る。

水中に三日潜んで、やがて遠く西北部の寧夏にまで亡命したのである。

寧夏では孛承恩の乱に加担し、承恩が捕らえられると、

劉詐縊、復逃海中。

劉、詐り縊れ、また海中に逃る。

劉は身代わりの首つり死体を遺してまた逃亡し、はるか東方の海中に逃れたという。

我が明朝に害を為すことかくの如きであったが、さらに

説者謂関白即劉東陽。不知是否。

説者謂うに、「関白すなわち劉東陽なり」と。是否を知らず。

この時期、「関白」の二文字が指すのは、大明征伐を公言して朝鮮を攻めた、日本国関白・平秀吉のことです。

「憎い日本の関白は、実は劉東陽なのだ」というひともいる。本当かウソかわからないが。

なのだそうですじゃ。みなさんはどう思いますか。

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「続耳譚」巻四より。本当だったとしたら、劉東陽は変装して、小田原攻めのあたりで羽柴秀吉と入れ替わったのかも知れません。

豊臣秀吉は、

十三日、疾大篤、将瞑。已而張目曰、勿使我十万兵為海外鬼。言畢而薨。年六十三。

十三日、疾大いに篤く、まさに瞑せんとす。すでにして張目して曰く、「我が十万の兵をして海外の鬼とならしむること勿れ」と。言畢りて薨ず。年六十三なり。

慶長三年(1598)八月十三日(実際は十八日とも)、危篤状態に陥り、ほとんど瞑目しようとしていた。が、突然、大きく目を見開き、

「我が十万の兵士たちを、海のかなたの幽鬼に、させてしまうでないぞ!」

と命じ、その言葉が終わると同時になくなったのである。六十三歳であった。

と、頼山陽先生「日本外史」巻十六には書いてあります。山陽先生はどんなひとの言葉も漢文脈にしてしまうのでおそらく漢文脈で遺言したとは思えませんが、もしかしたらチャイナのひとだったから漢文脈だったのカモ?

 

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