平成28年1月2日(土)  目次へ  前回に戻る

「新年あけまして、ブタでぶー」「おめでとうガジいます、ヤドカリでガジ」

一月二日。もうすぐ平日だ、平日だ、平日だー!!!!! シゴトへの不安、社会への恐怖の病気がまた・・・

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人有四百四病。

人に四百四病有り。

ニンゲンには四百四種の病気がある、といわれまちゅ。

一薬不能治一病、薬故多於病矣。

一薬、一病を治むるあたわず、薬は故に病いより多し。

一つの薬で一つの病気が治せるわけではないので、薬の種類の方が病気の種類より多くなるはずだ。

404種以上あるわけです。しかし、それでも薬の種類はまだまだ足らないんです。

世有八万四千煩悩、出於四百四病外。而無八万四千薬奈何。

世に八万四千煩悩有りて、四百四病の外に出づ。しかるに八万四千薬無きをいかんせん。

世界には八万四千種類の「心のわだかまり」(煩悩)があるといい、これは四百四種の病気とは別ものである。そして、八万四千種類の薬物なんてあるはずないのであるから、世界には治しようがないことも多いのだ。

治りません。

むかし、人民どもの煩悩を癒すために、文殊菩薩は普賢菩薩に

「クスリを採って来てくだちゃいな」

と頼んだという。

普賢菩薩は出て行って、しばらくして帰ってきて、いうには、

偏観大地、無不是薬。

大地を偏観するも、この薬無し。

「大地をぐるりとすべて観察してきたが、そのためのクスリはありませんでちたー」

と。

ああ、

煩悩無根、唯心所造。心所自造、還為心病。

煩悩根無く、ただ心の造るところなり。心の自ら造るところ、また心の病たり。

「心のわだかまり」には根本原因などなく、実はただ心が作り上げているだけなのである。心が自分で作ったものなのだから、心の病なのである。

心病須心自医、豈是外薬可療。

心病はすべからく心自から医すべく、あにこれ外薬の療すべけんや。

心の病は心が自身で治すしかない。外からつける薬に治すことができるであろうか。

しかしその薬を見つけることは、普賢菩薩にさえ容易ではないのだ。

さーて、どうしましょうか。

おいらは考えた。

考えたその末に、

「あ、そうだ、あれがありまちゅよ」

と気づきました。

然則文字之為薬也的矣。

しかればすなわち文字の薬たるや的たり。

そういう中では、「文字の薬」こそが最適なのである。

心がさわやかになるような、キモチがすがすがしくなるような、そんな文学を読む、ことによって治療できるのではなかろうか。

それは、ほかでもない、おいらが書きまちゅよ。おいらが馬車の中で書こうと思うのでちゅ。

偏観大地、是薬人不能採、因憑軾而作文字薬。意欲村夫子之易了、毋寧失之不文。

大地を偏観すれども、この薬、人採るあたわず、因りて軾に憑りて文字薬を作る。意欲す、村夫子の易く了し、むしろこれを不文に失うことなかれ。

大地をすべて観察しても、文字の薬はなかなか普通のひとには探し出しにくいものだから、おいらは車のながえによりかかって、この薬を作ろうと思います。どうぞ、田舎ぐらしのおやじどももたやすく手に入れてほしい。ぎゃくに、「こんなのでは程度が低い」などと言わないでくだちゃい。

ところで、あるひとがわたしに問うて訊いた。

子以是薬治天下耶。抑先以治汴中人耶。

子は是の薬を以て天下を治むるや。そもそもまず以て汴中の人を治むるや。

「キミは、この「文字の薬」によって、天下の病を治癒しようとしているのではないか。それとも、まずは河南のひとびとを治癒しようと考えているのか?」

おいらは答えた。

余先以治車中之人。

余、まずは以て車中の人を治めん。

「おいらは、まずはこの馬車に乗っている自分自身を治すつもりなんでちゅよ」

ああ、天下を癒すことは困難であろうが、なんとか文学によって、自分自身だけでも癒したいものである。

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明・葉秉敬「文字薬序」(「文字の薬について」)「明人小品集」より)。

今年こそは治したい。シゴトを続けていては治らないと思われるこの病を。文字では無理だと思いますけれど。

 

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