平成27年10月1日(木)  目次へ  前回に戻る

ちゅうちゅう、タコの世界は全国的にタコ祭り〜・・・と浮かれてみても明日もまだ平日。

今日は全国的にバクダン低気圧というのが来ているそうですが、南関東地方は今はもう風雨も収まって夜の街は静かです。

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さて、見たくもないのだが、最近はエレベータの中にも鏡があったりするので、そこに映るおのれの姿を見ると、一段と老い、かつ人相が悪くなっているのでイヤになりますねん。

人心如一个鏡。

人心は一个の鏡の如し。

ニンゲンの心は、一枚の鏡と同じだと思うがよい。

何が同じだといいますに、鏡というものには、

先未有一个影像、有事物来方照見妍醜。若先有一个影像在裏、如何照得。

先にはいまだ一个の影像有らず、事物来たる有りてまさに照らして妍・醜を見(あら)わす。もし先に一个影像の裏に有らば、いかんぞ照らし得ん。

最初は何物の像も映してはいない。何かがその前に来たときに、はじめて反射して、美しい姿や醜い姿を現出するものなのである。もしも何もその前に無いのに、最初に何物かの像が鏡に入っているのであれば、どうして物を映し出すことができようか。

ニンゲンの心もこれに似て、

本是湛然虚明、事物之来、随感而応、自然見得高下軽重。事過便当依前凭地虚方得。

もとこれ湛然として虚明、事物の来たるや、随いて感して応じ、自然に高下・軽重を見得す。事過ぎなばすなわちまさに前に依りて凭地に虚、方に得らるべし。

本来は波の無い水面のように静かで、空っぽである。何か物や事件が起こると、それに従って感じて対応し、おのずと高く盛り上がったり低くなったり、軽くあがったり重く沈んだりするのである。事物が通り過ぎると、また最初のように何もないからっぽが戻ってくるものなのである。

そうなってないとしたら、諸君らの心構えがいけないのである。

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と、宋の朱晦庵先生(いわゆる「朱子」)が言っておられます。鏡のせいではなくて我々の側の責任によって、美しい姿・醜い姿が現れるのですなあ。「朱子語類」巻十六より。

明日もまだ平日なので、バクダン低気圧がすべてを吹き飛ばしてくれないならば、また明日もエレベータに乗って自分を姿を見ることになるのだ。

 

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