平成27年9月27日(日)  目次へ  前回に戻る

今日は中秋節。

月見のうたを一曲。

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停杯不挙、停歌不発。等候銀蟾出海。

杯を停めて挙げず、歌を停めて発せず。等しく候(ま)つ、銀蟾(ぎんせん)の海を出づるを。

さかずきは止めたまま乾杯ができない。歌も歌おうとして止めたまま歌えない。

なにゆえとならば、みな、「銀色のヒキガエル」が海から出てくるのを待っているからだ。

月には蟾蜍(せんよ。ヒキガエル)が住んでおり、月面の影はヒキガエルの姿だ、ということになっておりますので、「銀のヒキガエル」とは満月の月のこと。

ところが、

不知何処片雲来、做許大、通天障碍。

知らず、いずれの処よりか片雲の来たりて、この大を做(な)し、通天に障碍せり。

どこからか、ちぎれ雲が湧いてきて、あんなふうに大きくなって、天上と大地を遮ってしまったのだ。

うわーい、これではおつき様が見えません。

虬髯捻断、星眸睜裂。唯恨剣鋒不快。

虬髯(きゅうぜん)捻り断じ、星眸(せいぼう)睜(まなじり)裂く。ただ恨むらくは剣鋒快ならざるを。

わしも軍人である。はねあがったヒゲをねじりきるぐらいイライラし、星のように光るひとみのまなじりは怒りのために切れてしまった。

(気持ちはすごい強いのだが)ただ、わしの剣の切っ先が宇宙に届くほど鋭くないのが悔しいことだ。

一揮截断紫雲腰、仔細看、嫦娥体態。

一揮して紫雲の腰を截断し、仔細に看ん、嫦娥(じょうが)の体態を。

(もし届いたら)一振りしてあの紫の雲の、くびれた腰のようになったあたりを真っ二つに切り裂いて、じっくりと月の女神・嫦娥のからだつきをさらけ出させてやろうのに。

嫦娥さま、(*´Д`)ハアハア→参照「○常娥さま

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金・海陵庶人・完顔亮(わんやん・りょう)「鵲橋仙・待月」(月を待つの歌――「かささぎの渡す橋の上の仙女」の節で)

暴力とエロスを含んだ気宇壮大な歌いぶりは、さすがは歴代皇帝の中でも、三国・魏の文帝、五代・南唐の後主とともに

頗知書、好為詩詞。

頗る書を知り、好んで詩詞を為(つく)る。

すっごくたくさん本を読んでおられ、詩や詞を作るのが大好きであられた。

と称賛された(「金史」)海陵庶人さまの作品だけのことはあります。

え?「庶人」なのになぜ「歴代皇帝中でも・・・」と評されるのか?って?

あ、そうか、ちょっと説明が必要ですね。

完顔亮字・元功は金の初代皇帝である太祖・完顔阿骨打(わんやん・あぐだ)(在位1115〜1122)の庶長子(側室が生んだ最年長の男子)であった完顔宗幹の子であります。文武に優れ、海陵王に封じられ、いとこに当たる三代皇帝・熙宗(在位1135〜1149)の丞相となりましたが、皇統九年(1149)冬、酒に溺れ、罪無きひとびとを殺すのを楽しむ熙宗とその近臣たちへの不満分子を糾合して、帝を弑して自ら帝位につき、天徳と改元した。十数年かけて弛緩していた軍制と行政をふたつながら整えると、ついに正隆六年(1161)、悲願のチャイナ統一に向け、諸道三十二軍に令して南宋との和約を破って南進を開始した―――が、各地で南宋軍の執拗な抵抗に悩むうちに東京(遼陽)にあった皇族・完顔雍が自立して大定と改元。それでもなお進んで長江を渡ろうとした・・・ところで、帰国を望んで反乱を起こした将士たちに弑殺された。年四十。

ふつう、正統な皇帝には、死後、諡号がおくられます。「太祖」も「熙宗」も諡号です。完顔亮から帝位を奪ったかたちになり、金一代の名君として「小堯舜」(堯や舜の小さいやつ)とうたわれた完顔雍もふつうは「世宗」という諡号で呼ばれます。しかし、完顔亮は外地で反乱を起こした兵士らに殺された、後を継いだ世宗は完顔亮が在位中に自ら即位した、という特殊な状況にあるため、とうとうこの諡号がもらえず(つまりその後の金帝国から正統な皇帝とは認められず)、正統な皇帝であった熙宗から封じられた「海陵王」の称号を用いて呼ぶしかなくなってしまった。しかも金代の間はその「王位」さえ取り消されていたため、ただの「海陵なんとかと名乗っていた人民」という位置づけになってしまったので、金代の歴史家が彼を呼ぶときには「海陵庶人」さん、ということになってしまったのでありました。

彼も生前は当然「皇帝」として君臨していたわけですが、チャイナでは事実ではなく後代の権力の意思が歴史を記述する、のでこんなことになるわけなんです。ほかにもこんなことが・・・といろいろ話したいことはあるのでございますが、ああ、明日はもう月曜日。夜は更け、月も雲間に隠れた。おいらはそろそろ泣きながら寝なければなりません。さようなら。

ちゃようなら。また逢う日まで。

 

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