平成27年8月11日(火)  目次へ  前回に戻る

草花を相手にするようになっていく。

疲れた疲れたといっててもしようがないので、・・・・とぶつくさ言いかけましたが、だからこうしよう、というアイディアもありません。だいたい誰もおれのぶつくさを聴いているわけではないしな。相手もいないのでは説教さえできんからな。やっぱり疲れたなあ、とぶつぶつ言いながら風呂入って寝る。

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「仁」とはなんぞや。

「仁」は「人が二」と書きますでしょう。

仁者二人相与也。

仁なるものは二人の相与(くみ)するなり。

「仁」というのは二人のひとが互いに取り組みあうその関係そのものなのだ、ということなんですよ。

ほんとですか。

事親、孝為仁、父与子二人也。事兄、弟為仁、兄与弟二人也。事君、臣為仁、君与臣二人也。牧民、慈為仁、牧与民二人也。以至夫婦、朋友凡二人之間、尽其道者皆仁也。然、孝悌為之根。

親に事(つか)うるに、孝、仁と為す、父と子二人なり。兄に事うるに、弟(てい)、仁と為す、兄と弟二人なり。君に事うるに、臣、仁と為す、君と臣二人なり。民を牧するに、慈、仁と為す、牧と民二人なり。以て夫婦・朋友に至るまで、およそ二人の間、その道を尽くすものはみな仁なり。しかして孝・悌これを為すの根なり。

親におつかえするときは、孝行が「仁」(本質)なのだが、それは結局、父と子の二者の関係である。

兄につかえるときは、弟らしくすることが「仁」なのだが、それは結局、兄と弟の二者の関係である。

主君におつかえするときは、臣下として尽くすことが「仁」なのだが、それは結局、主君と臣下の二者の関係である。

人民を治めるときには、いつくしみの気持ちが「仁」なのだが、それは結局、治者と人民の二者の関係である。

夫婦間の愛情、朋友間の友情など、すべて二者の関係の中でその道を尽くせば、すべて「仁」である。だから、「祖先への孝行や目上のひとへの謙譲はすべての関係の元型である」といわれるのである。

へー。

夫仁人之有孝、猶四体之有心腹、枝葉之有根本也。

それ、仁人の孝有るは、なお四体の心腹有り、枝葉の根本有るがごときなり。

まあ、仁ある人が当然のように親孝行なのは、両手両足にとっての心臓や腹部、枝葉にとっての根本、と同じで、それ(孝行)が「仁」のもともとの根っこだからなのだ。

へー。

と頷くばかりです。

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李朝の鴻儒・丁茶山「与猶堂全書」「論語古今注」より。

倫理は、個別の二者関係においてはじめてハタラくものである。口頭や論文でいくらうるわしく語ったところで、現実にハタらいていない紀律に何の意義があるものであろうか。相手のいない説教と同じで役に立たぬしムダである。・・・ということでしょうか。

 

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