平成27年5月1日(金)  目次へ  前回に戻る

バスを待つように「(運休などで)もし来なかったらどうしよう?」と思いながらこの日を待っていた。

明日はとうとう休日。連休初日。このままずっと休日になるカモ(二度と出勤しないカモ)。

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後漢の中平元年(184)、交趾(北ベトナム)の現地部隊が人民とともに暴動を起こし、交趾刺史と合浦太守を捕らえるという事件が起こった。黄巾の乱に苦しむ後漢政府にはこれを軍事的に鎮圧する力は無かったが、一方で現地人民側も皇帝に叛く気は毛頭なく、捕縛した刺史を都(当時は洛陽)に送還するとともに、

「新たな刺史を派遣いただきたい」

と申し出て来た。

即位間もない霊帝が、

「特段の能吏を選んで新しい刺史として送り込まなければ混乱は収まらぬ」

と考え抜いて選んだのは、京兆令の賈j(字・孟堅、東郡聊城のひとなり)であった。

賈jはほとんど単身で交趾に至ると、まず諸人を呼んで、

訊其反状。

その反状を訊(たず)ぬ。

暴動を起こした事情を訊ねた。

すると、ひとびと異口同音に答えて言う、

斂過重、百姓莫不空。単京師遥遠告冤無所、民不聊生自活、故聚為盗賊。

斂(おさ)むること重きに過ぎ、百姓空しからざるなし。ひとえに京師遥遠にして冤を告ぐるに所無く、民聊生自活せず、故に聚まりて盗賊を為すのみ。

「税金があまりに重いのでございます。このため、人民はみな貯えを持つことができなくなりました。そのようなつらい状況を申し上げようにも、みやこは遥かに遠く、お願いのすべも無くて、人民はなんとか生きていくことさえままならぬ始末。このため、謀議して暴動を起こしてしまっただけなのでございます」

と。

そこでただちに告示を行い、暴動を起こした者ももとの生活に戻るなら罪に問わないこととし、これまで人民を苦しめていた官吏を追放して善良なものを選んで村々を治めさせることとした。

かくのごとくしたところ

歳間蕩定、百姓以安。

歳間にして蕩定し、百姓以て安んず。

一年ほどの間に混乱は収まり、人民たちは安心して暮らすようになった。

よかったでちゅう。

巷路為之歌曰、賈父来晩、使我先反。今見清平吏不敢飯。

巷路これがために歌いて曰く、

「賈父来たること晩(おそ)く、我をしてまず反せしむ。今、清平にして吏あえて飯せざるを見たり」

路地という路地ごとにひとびとは賈jを讃える歌を歌った。曰く、

 賈のおじさん、やって来るのがおそかったから、

 おいらたちとりあえず叛乱起こしちゃった、けれど、おかげで来てくれた。

 今や官吏たちもみな清らかで無理を言わず、

 飯を食わせろ、とさえ言わなくなりました。ハア、ヨイヨイ。

と。

ゲゲゲのキタロウをたたえる虫たちのように歌われ、人民たちは賈jがいつまでも刺史でいてくれればいいのに、どこか別の地に行ってしまわないように、と祈ったのだそうでございます。

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「後漢書」巻六十一「賈j伝」より。この賈jの故事は、地方官の清廉で有能なのを形容する「民歌来晩」(民、来たること晩きを歌う)という成語になっております。

わたくしどもも同じような思いでございました。連休さまのやって来ることのなんと遅かったことでしょうか。おいらももう耐えられずに叛乱を起こしてグダグダしていましたが、ようやく連休さまが来てくだすったのでございます。ハア、ヨイヨイ。今となっては、連休さまがどこかに去ってしまわないように祈るばかりでございます。

なお、賈jは交趾刺史たること三年、次いで黄巾の乱によって大いに荒れ果てた冀州刺史に転じて、ここでもまた大いに政蹟あった・・・のでありますが、そのお話はまた別の機会に。

 

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