平成26年11月30日(日)  目次へ  前回に戻る

「歴史の背後に陰謀あり」

今日はいよいよ月曜日の前日。夜闇の彼方から、月曜日が不気味に迫ってきております。しかも明日からは日本海側は大しけ、太平洋側も本格的に冬になる、というのに。

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冬といえば、えーと、あれはいつごろだっけ・・・そうだ、2600年ぐらい昔の、紀元前590年の冬のことです。

魯の大夫・季孫行父(きそん・こうほ)が斉の国に使いに出た。斉にはこのとき、晋・衛・曹の重臣も集まり、楚に対する外交について議論がなされることになっていた。

ところで、

季孫行父禿。

季孫行父は禿なり。

季孫行父は、ハゲあたまであった。

「ほんとうか?」

と思うかも知れませんが、古い史書にそう書いてあるのだから、疑ってはいけませんぞー。

そして、

晋郤克眇。衛孫良夫跛。曹公子首僂。

晋・郤克(げきこく)は眇なり。衛・孫良夫は跛なり。曹・公子手は僂(ろう)なり。

晋の大夫・郤克はやぶにらみであった。衛の大夫・孫良夫は足を引きずっていた。そして、曹の公子・姫手は背中が曲がっていた。

この四人が

同時而聘於斉。

時を同じうして斉に聘せらる。

同時に斉の国に呼ばれて集まってきたのである。

実際、この四人は当時の記録に何度も名の出てくる名うての外交家たちであった。

この四人の来訪に対応しまして、

斉使禿者御禿者、使眇者御眇者、使跛者御跛者、使僂者御僂者。

斉、禿者をして禿者を御せしめ、眇者をして眇者を御せしめ、跛者をして跛者を御せしめ、僂者をして僂者を御せしむ。

斉の国では、はげあたまのやつの馬車の御者ははげあたまのやつにやらせ、やぶにらみのやつの馬車の御者はやぶにらみのやつにやらせ、足を引きずってるやつの馬車の御者は足を引きずっているやつにやらせ、背中の曲っているやつの馬車の御者は背中の曲っているやつにやらせた。

これは、時の斉侯の母君であられた䔥同姪子(しょうどうてつし)さまのご差配であった。

そして、

䔥同姪子処台上而笑之。

䔥同姪子、台上に処(お)りてこれを笑う。

䔥同姪子さまは、高いところからこれをご覧になってお笑いになられたのであった。

このこと、四人の外交家の知るところとなった。

客不説而去、相与立胥閭而語、移日不解。

客、説(よろこ)ばずして去り、あいともに胥閭に立ちて語りて、日を移すも解かず。

四人の客人たちは不快な思いを持って帰国することになり、かれらは国都の門の敷居ところで(分かれる前に)立ったまま何かを話し合い、日の高さが変わるまで解散しなかった。

何事かを謀議していたのである。

斉の心ある人たちはこれを見て、

斉之患必自此始矣。

斉の患、必ずこれより始まらん。

我が斉の国の衰えは、かならずここから始まるであろう。

と嘆いたという。

翌年、晋、衛、魯、曹の連合軍は楚と同盟を結ぼうとする斉を責め、これを迎え撃った斉侯の軍と、平陰・鞍(あん)の地で会戦した(鞍の戦い)。この戦いに斉軍は侯の身も危ういほど大いに敗れ、多くの将士を失って、以後中原に覇を唱えることは無かったのである。

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「春秋穀梁伝」成公元年冬条より。

同じ事件が「公羊伝」の成公二年条にも記されていますが、郤克と魯の臧孫許(そうそんきょ)という人のことになっており、跛と眇であったことになっております。しかし、伝承系統を全く別にする「左氏伝」にはこんなお話は載っておりません。だいたいにおいて、䔥同姪子さまに仮託されるこの手のイヤガラセは、戦国時代以降のチャイナびとたちならいかにも考え着きそうですが、春秋の時代、まだ原始宗教の秩序の中で生きていたころの「夏」のひとびとには考え着きそうにもない感じがします。

「春秋」の三伝のうち、「左氏伝」は具体的な事件を記して経文を解説するのが常ですが、「公羊伝」と「穀梁伝」はほとんどの場合、経文の文字についての字義の解釈を示しているだけです。それでも「公羊伝」には約五十、「穀梁伝」には約三十の「事件」が記録されていますが、両伝の記す「事件」は同時代について記したほかの史料との整合性が無く、どうもウソっぽいそうです。ということで、この話、

「ほんとうか?」

と訊かれたら、

「おそらくウソと思いまっちゅ」

と答えるべきでありました。迫りくる月曜日の恐怖に慄いている、おいらみたいな子どものやってることだから許してちょんまげ。なお、「日を移すも解かず」(あるいは「日を移して後に相去る」)というのは何らかの共同謀議をしているらしいことをあらわす言い回しとして時々使われるので、覚えておくと便利(・・・なことはまずないと思いますケド)。

 

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