平成26年8月28日(木)  目次へ  前回に戻る

 

あと一日、になったので、今日は職場の仲間とイタリア料理。おいしうございました。だが、そろそろ体力的には限界的である。ほんとに次のしごとを考えナイト。

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近江・日野のひと、藤崎祚卿がわしのところに詩について語りに来たので、わしらは

一日在座。時方暮春、庭前紫藤花盛開。

一日座に在り。時にまさに暮春、庭前の紫藤花盛開なり。

一日中座ってああでもない、こうである、と話し合った。時節はまさに春も終わらんとするころ、我が家のつたない庭先にも、紫の藤の花が今を盛りと咲き誇っていた。

祚卿、藤の花を見ながらふとつぶやく。

「あなたは佐野竹軒という詩人を御存知かな」

わしは首を横に振った。知らなかったからである。

すると祚卿は竹軒の詩だといって七絶を吟じはじめた。

紫藤花映小柴門、  紫藤の花、小柴門に映じ、

尽日曾無車馬喧。  尽日すべて車馬の喧無し。

ムラサキの藤の花が、我が家の粗末な柴戸の門に映えていて、

今日も一日、(藤の花を動かして門から入ってくる)騎馬や乗車のお客はひとりもいなかった。

ヒマである。

一枕黒甜郷裡夢、  一枕の黒甜(こくてん)、郷裡の夢、

醒来槐影落西軒。  醒め来たれば槐の影は西軒に落つ。

「黒甜」は「目の前が真っ暗になる心地よいこと」で、「昼寝」をいう(宋の蘇軾の詩語である)。

ちょいと枕をあてて昼寝してたら、ふるさとの夢を見た。

目覚めると(日は傾き)えんじゅの木の影がもう西の軒端にかかっているのだった。

「ほほう」

わしは言うた。

何酷似吾輩身世耶。

何ぞ吾輩の身世に酷似せるや。

「なんともわしらの生活にそっくりじゃなあ」

祚卿また苦笑しつつ、曰く―――

竹翁名玄庵、豊後人。嘗受業頼山陽、後以医仕市橋侯。中興後流寓日野、売薬為活。

竹翁は名、玄庵、豊後のひと。かつて頼山陽に業を受け、後医を以て市橋侯に仕う。中興後日野に流寓し、売薬して活を為せり。

竹軒翁は名を玄庵と言うて、生まれは豊後であった。若いころに頼山陽に詩を学んだということだ。その後医学を修めて市橋侯(仁正寺藩)にお仕えしていたが、明治中興(御一新)の後は職を失って日野に流れて来た。日野では薬売りをして日々の生活を営んでいた。

日野のような片田舎で貧乏人相手に薬を売ってもいかほどの稼ぎにならん。

米鹽屢空、晏如也。一切憂愁都寓於詩、明治十三年以病亡。齢七十三。詩篇散佚、世鮮知其名者。

米鹽しばしば空しけれども、晏如たり。一切の憂愁はすべて詩に寓し、明治十三年、病を以て亡ず。齢七十三。詩篇散佚して、世にその名を知る者は鮮(すくな)きかな。

コメや塩さえしばしば無くなるような貧乏な生活であったが、心安らかであった。あらゆる心配事や苦悩はすべて詩の中に歌いこんでしまっていたからである。明治十三年(1880)に病を得て亡くなった。七十三歳であった。その詩篇はもう散逸してしまっていて、世間にその名を知る者もあまり多くない。―――

「なんともわれらの境遇にそっくりじゃなあ」

わしらは顔を合わせて笑ったのであった。

そろそろ日が暮れる。祚卿は晩飯を勧めるわしに、長居を謝して帰っていった。

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籾山季才「明治詩話」一篇より。

意外と長生きですね。明治の御一新のころ六十歳ですから、高齢になって失業したのではツラかったものと思われます。おいらも間もなく・・・おいらは何を売って生活を営もうかな。

 

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