平成26年1月17日(金)  目次へ  前回に戻る

 

忙しく働いてくれている人たちには申し訳ないのですが、週末です。シアワセ。ほんとうに申し訳ない。

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古代には、民は草を茹でて食らい水を飲み、樹木の実を採り、かたつむりや貝の肉を食べていた。そんな時代に、

神農乃始教民播種五穀。

神農すなわち始めて民に五穀を播種するを教う。

神農という聖人(文化英雄)が、原始人どもにはじめて五種類の穀物の種を播き、耕作をする、ということを教えたのである。

神農とてあらかじめどんな土地が耕作に適し、どんな植物が食用に適しているのか知っていたわけではない。

しかし人民どもは

「おいらたちはコドモのような原始人なんだから何も知らないの。神農は聖人なんだから教えてくれて当然」

「耕作めんどくちゃいけどしてやるんだから、神農はおいらたちのこと人民さまと呼んでくだちゃいよ」

「耕作の仕方とかわからないから図解したりわかりやすくしてね。おいらたちが努力すると思ってはいけませんよ」

などと勝手なことを言ってるばかりで、

やってみて 言って聞かせて やらせてみ、ほめてやらねば人は動かず

なやつらであったから(現代のわたしらと同じですね)、神農は

嘗百草之滋味、水泉之甘苦、令民所辟就。当此之時、一日而遇七十毒。

百草の滋味、水泉の甘苦を嘗め、民に辟(さ)くる・就(つく)ところを令す。この時に当たりて、一日にして七十毒に遇う。

百種類の植物にどんな栄養がありどんな味がするのか、各地の川や泉の水の質が甘いのか苦いのか、すべて自分で味わってみて、それから人民どもに避けるべきものはどれか、利用すべきものはどれかを教えたのであった。この時期、神農は一日に七十回も食中毒しながら働いたのである。

たいへんだったのです。

それでも

「あいつは飲んで食ってるだけではないか」

とか批判しているやつはいた、と思う。

神農以降の聖人たちもたいへん忙しかった。

堯帝

立孝慈仁愛、使民如子弟。

孝・慈・仁・愛を立て、民をして子弟の如くあらしむ。

孝と慈、仁と愛といった道徳というものを考えだし、人民どもを自分の庇護者として教え導いたのである。

そして、西の方の沃民という野蛮人、東の黒歯族、北は幽都という国、南は交趾にまで道を通し、倫理を教えた。

善を教えるだけでなく、人民に患を為す悪者を討伐することを始めたのも堯帝である。彼は、讙兜を嵩山に放逐し、三苗を三危に流し、共工を幽州に追放し、鯀を羽山で死刑にした。

次いで舜帝は、柱を立て壁を塗り、屋根を葺き樹を植えて垣にすることを教え、

令民皆知去巌穴、各有家室。

民をしてみな巌穴を去るを知り、おのおの家室を有らしむ。

人民どもに岩穴から出て、自分たちで作った建物に住むことを教えた。

舜帝はさらに、南方の治安を乱した三苗を再び討伐すべく出かけて、ついに蒼梧の地で客死してしまったのである。

その後を継いだ禹王は特に土木事業に熱心であった。

沐浴霪雨、櫛扶風。

霪雨に沐浴し、扶風に櫛けづる。

しとしとと雨が降ってもしごとを休まず、風呂がわりにしてシゴトの手を休めず、強い風が吹くとそれを櫛の代わりにして髪をとかした。

かくして働き続け、黄河を開き長江を海に流し、竜門の崖を穿ち、地を平らにし水を治め、千八百の国を創り出したのである。

それ以降も殷の湯王、周の文王・武王らは身を粉にして人民のために励み、これをみて、料理人あがりの伊尹、屠殺者あがりの太公望、徒刑者あがりの百里奚、反乱者あがりの斉の管仲・・・みな感動し奮い立ち、彼らを助けて働いたのであった。

夫聖人者、不恥身之賤而愧道之不行、不憂命之短而憂百姓之窮。

それ、聖人なる者は、身の賤しきを恥じず、道の行われざるを愧じ、命の短かきを憂えず、百姓の窮を憂う。

ああ、聖人という方がたは、自分の身が尊重されないことなどは気にかけない。文明が進展しないことを気に掛ける。自分の生命が短いのではないかなどということは心配しない。ひとびとの生活が豊かにならないのではないかということを心配なさるものなのだ。

ここに名の現れた「聖人」は伝説としてひとびとが伝えてきた、というだけで、このほかに無数の「聖人」たちが人類の幸福のために粉骨砕身してきたのであり、今もしているのだ。

・・・・・こういった聖人賢者の系列の中に、孔子墨子がおります。

孔子も墨子も人民のために身を粉にして働いたのですが、さて、ここで問題。

孔子無黔突、墨子無煖席。

孔子に黔突無く、墨子に煖席無し。

であったそうです。

これを見るに、孔子と墨子、どちらが忙しかったでしょうか? 答えは―――次回。

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「淮南子」巻十九「脩務訓」より。

 

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