平成25年11月5日(火)  目次へ  前回に戻る

 

よいちょ、と。

おいら、まずはおひげに糊をつけまちて、お鼻の下にひっつける。

それからおメメの上に白い眉毛を貼り付けて。

遠視のメガネをかけまして、じじいの持つ杖を手にしまして、それから煙玉を地面に投げつける・・・。

ぼわわ〜ん。

とケムリが出て、おいらは老人形に変じまちた。肝冷斎2号の出来上がり〜。

肝冷斎がついにまたまた力尽きまして病休に入ったので、今日からはおいらが代わりをやりまちゅよー。

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と、そこへ春秋の宋の国の人から相談がまいりまちた。

「おっほん。いったいどうなさりまちたのかな」

とおいらはおひげをひねりながらえらそうに言いまちた。

すると、宋ひと曰く、

家無故而黒牛生白犢。

家、故無くして黒牛、白犢(はくとく)を生む。

「我が家では、どういうわけか、黒い牛が白い子牛を生んだのでございます。

何の兆しであるか、御助言願いたい」

おいらは言いました、

此吉祥、以饗鬼神。

これ吉祥なり、以て鬼神を饗すべし。

「おお、これは吉兆ですぞよ。その子牛を犠牲にして精霊たちを祀るがよろしかろう」

さて、一年後、またその宋ひとがやってまいりました。

父無故而盲。牛又復生白犢。

父、故無くして盲(めし)いたり。牛また、白犢をまた生む。

「言われたとおりにしておりましたら、その後、原因も無く父の目が見えなくなってしまいました。さて、このたび、またも例の黒牛が白い子牛を生みましたので、今度はどうすればいいかと思いお訪ねした次第でござります」

「お、おっほん。それはそれは・・・。う〜ん、

此吉祥也。復以饗鬼神。

これ吉祥なり。また以て鬼神を饗すべし。

今回もやはり吉兆ですぞよ。また子牛を犠牲にして精霊たちを祀るがよろしかろう」

その人、帰って父に報告したところ、父親曰く、

行先生之言也。

先生の言を行え。

「先生のおっしゃるとおりにするのじゃ」

そこで言われたとおりにした。

居一年、其子又無故而盲。

居ること一年、その子また故無くして盲いたり。

一年経ったころ、子の方もまた、原因も無く目が見えなくなってしまった。

そのころ、

楚攻宋、囲其城。

楚、宋を攻め、その城を囲む。

楚の国が宋の国を攻め、その都城を包囲した。

この攻囲戦は一年に及び、その間、城内では兵糧が手に入らず、

易子而食、析骸而炊。

子を易(か)えて食らい、骸(むくろ)を析(わ)けて炊く。

(自分の子どもは食べるに忍びないので、)他人と子どもを交換してその子どもを食べた。(それを煮るのに燃料が無いので、)骸骨を薪木代わりにして煮炊きした。

というたいへんな飢餓状態になった。

さらに健康な若者や壮年の者が戦死したあとも、老人・病人・童子ら、みな城壁に昇り、徹底的に戦って降伏しなかった。

あんまり抵抗したので、

楚王大怒、城已破、諸城守者皆屠之。

楚王大いに怒り、城すでに破るるや、もろもろの城守者、みなこれを屠る。

楚王はたいへん怒り、城が陥落した後、城を守っていた者はすべて皆殺しにしてしまった。

ところで、

独以父子盲之故、得無乗城。

ひとり、父子は盲の故を以て、乗城する無きを得。

例の親子だけは、目が見えないということで戦闘の始まる前に城から追い出されてしまっていた。

このため命拾いをしたのだが、さらに城外で暮らしているうちにその生活がよかったのであろうか、

父子倶視。

父子、ともに視せり。

親子ともども視力を取り戻すことができたのであった。

ほんとうに、

禍福之転而相生、其変難見也。

禍福の転じて相生ず、その変見がたきなり。

わざわいとさいわいと、転換しながら次々と変化していく、その様子はまったく予想しがたいものである。

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予言がうまく行きまして、ああよかった。子どもを食べちゃった人たちは大変でちたが。

ちなみに昔から細かいことを詮索するのが好きな人がいて、

この事件は「春秋」の魯の宣公の十四年に

秋九月、楚子囲宋。(秋九月、楚子、宋を囲む。)

秋九月、楚の荘王(在位前613〜前591)が宋の国都を囲んだ。

とあり、その翌十五年に

夏、楚子去宋。(夏、楚子、宋を去る。)

夏、楚の荘王は宋から引き上げた。

とある時のことである、と考証しております。そうだとすると紀元前595〜594年にかけてのこと、ということになり、

「なるほどそうだったのか、賢くなった」

とは思うのですが、果たしてそんな考証に意味があるのかどうかという気はします。

ところで、

「はて、どこかでこれに似た話を聞いたような・・・」

と思うひとも多いかと思います。実はこのお話は、「淮南子」巻十八にありますが、このすぐ直後に

塞上に近き人に術を善くする者あり、その馬故無くして亡(に)ぐ・・・・・。

国境に近いところに、未来のことを予測する術に長けたひとがいた。その人の馬がどういうわけか逃げ出してしまい・・・・。

という、例の「塞翁の馬」の故事が記されておりまして、ともに

事或奪之而反与之、或与之而反取之。

事あるいはこれを奪いて反ってこれに与え、あるいはこれに与えて反ってこれに取る。

先に奪っておいてあとで与えたり、逆に与えておいて奪う、ということがらもある。

という事象の「説明」として引かれているものなのです。要するに、為政者はこういう「政治手法」も念頭に置いて政治をせねばならん、ということなのだそうです。エライひとはたいへんでちゅねー。

 

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