平成25年9月8日(日)  目次へ  前回に戻る

 

今日は雨が降っていたので涼しかった。

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昨日の続きです。

子産さまの政治というのは、

使都鄙有章、上下有服、田有封洫、廬井有伍。大人忠倹者、従而予之、泰侈者、因而斃之。

都鄙をして章有り、上下をして服有らしめ、田に封洫有り、廬井に伍有らしむ。大人の忠倹者は従いてこれに与え、泰侈者は因りてこれを斃す。

都市と村落との区別を厳格にし、身分による服装の区分を明確にした。また、田圃についてはその境界線(「封」)をはっきりさせ、用水路(「洫」)を作らせた。従来の隣組(「廬」)は九戸ごと(「井」。縦二本、横二本で区切ると九つの区域ができるから)であったのを五戸ごと(「伍」)に改めさせて村落の掌握を容易にした。

貴族(「大人」)のうち、政府に忠実で倹約する者にはその様子に応じて財を給与し、逆に指示を聴かない者、贅沢している者には、それを理由に取り潰した。

というものでございました。

春秋時代も終わりに近づき、領内、特に都市の外の村落部の掌握が為政者にとって重要な問題になってきていたことがわかりますね。

このような改革を進めるうちに、子張(豊巻)という貴族が子産の為政に異を唱えた。

もともと子張は

将祭、請田焉。

まさに祭らんとして、田(でん)を請えり。

先祖の祀りを行うために、(犠牲とする獣を捕獲するため)大規模な狩猟を行うことの許しを求めてきた。

のであったが、子産は

弗許。

許さず。

これを許可しなかった。

のであった。

その理由は、

唯君用鮮、衆給而巳。

ただ君のみ鮮を用い、衆は給わるのみ。

主君(鄭公)だけがお祀りにおいて新たに殺した獣を犠牲に用いることができるのです。それ以外のひとびとは、貴族といえども(以前の狩猟で捕獲した獣の)乾し肉を支給してもらって、祀りを行ってください。

というものであった。(「鮮」とは新しく殺した犠牲獣のことです。「新鮮」、「鮮血」などその意味をもともと含む。なんだかワクワクしてきますね。)

ただしこのあたりの主張は建前で、農本主義者であった子産は、田猟によって収穫後の田を荒らすことを避けたかったのであろう。

子張はこれに不服であった。

「鄭公は主君とはいえ、もともと我が家と同族である。どうして公の先祖は「鮮」な肉を捧げられるのに、我が先祖は乾し肉だけでガマンせねばならんのか」

怒、退而徴役。

怒り、退きて役を徴す。

憤怒して、自らの領地に引きこもり、人民の労役を徴発して兵士に充てはじめた。

「これはいけません。逃げる方がいいみたい」

子産奔晋。

子産、晋に奔(はし)らんとす。

子産は晋の国に亡命しようとした。

国際的に信望の高い子産が亡命したとなると諸国の介入の口実にもなります。

子産を執政に奨めた実力者の子皮が、

「少しお待ちいただきたい」

止之而逐豊巻。豊巻奔晋。

これを止どめ、豊巻を逐う。豊巻、晋に奔れり。

子産の亡命を止どめ、逆に子張の方を追放した。子張は晋に亡命したのである。

この事件の後、子産は子張の領地を自らの所有に組み込んでしまった。ひとびとは子産は私利を図ったのだと陰で揶揄したが、

三年而復之、反其田里及其入焉。

三年にしてこれに復するに、その田里及びその入を反(かえ)せり。

三年後、子張が謝罪して鄭に戻ってきたときには、もとの領地を返しただけでなく、三年間のその地の収益を合わせて返したのであった。

これによってこれまで子産を批判していたひとたちも心服するようになった。

―――子産が執政になって一年したころには、

輿人誦之曰、取我衣冠而褚之、取我田疇而伍之。孰殺子産、吾其与之。

輿人これを誦して曰く、「我が衣冠を取りてこれを褚し、我が田疇を取りてこれを伍にす。孰(た)れか子産を殺さば、吾、それこれに与(くみ)せん」と。

輿担ぎ人足たちは歌った、

わしらの服や冠を取り上げてよれよれにし、わしらの田舎の田圃を取り上げて五人組に替えおった。

子産を殺す者がおったら、わしはそいつの仲間になるつもり。

「輿人」(よじん)は高貴者の乗る「輿」(こし)を担ぐ奴隷どもで、知性なんか無い者たちとされていた。その彼らが集団無意識の中で歌うのが「輿論」(よろん)であり、人民や天地の声を代理するものだとされておったのである。(昭和に作られた「世論」という言葉とは背負っている意味がまったく違うのですな)

すなわち、「輿論」は子産を強く指弾していたのである。

しかるに、

及三年、又誦之曰、我有子弟、子産誨之。我有田疇、子産殖之。子産而死、誰其嗣之。

三年に及びてまたこれを誦して曰く、「我に子弟有り、子産これを誨(おし)う。我に田疇有り、子産これを殖やす。子産にして死なば、誰かそれこれを嗣がん」と。

三年経つと、輿人たちの歌は替わった。

わしらのところの若い者は、子産さまが教育してくださった。

わしらの田舎の田圃は、子産さまが増やしてくださった。

子産さまが亡くなったりしたら、いったいどなたがこんなことをしてくださるのやら。

「まあそんなもんですよ。まだこれからだ」

子産は現実の利害によって批判が簡単に称賛に変わること、そしてその逆もまた簡単であることを弁えたおそらく史上最も早い人のひとりであった。

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チュウゴク宰相列伝、とかそんな本を読むと、まず殷の伊尹、周の周公旦のように「王」を助けて天下を統一した伝説的な宰相が登場し、次に斉の管仲、晏嬰のように「覇者」を助けた人が出てまいります。その次に出てくるのが子産で、彼はある種のタイプの知識人(古今を問わない)が大好きな「強国に挟まれた小国」のひとですから、彼を評価するひとは多い。

子産さまの政治はまだまだ続きます。が、明日からまた出勤。わ、またこんな時間だ。なので、このお話はここまでとさせていただきます。「春秋左伝」魯襄公三十年「鄭子皮授子産政」章より。

 

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