平成25年6月21日(金)  目次へ  前回に戻る

 

首里の「真和志森」という聖地は「琉球国由来記」(巻五)によれば

有中山門坊外。

中山門の坊外に有り。

中山門内町の外にある。

とのこと。今の首里高校の西南端のあたりより西側にある小丘がこれであろう。

この聖地、

俗伝、京阿波根親雲上実基塚云。詳不可考。

俗に伝う、京阿波根親雲上実基の塚なりと云う。詳らかには考うべからず。

一般には、京阿波根(きょうあはごん)の親雲上(おやくもい。べーちん)であった実基というひとの墓である、と言われているが、詳しいことはわからない

親雲上(おやくもい)は、「親のように偉い雲の上のひと」の意で、琉球王府の職階の一。王子→按司→親方の次の位階で、奉行クラスということになりましょうか。近世沖縄方言で、「おや」は「うえ」と変化し、さらに「べー」となり、「くもい」は「くみ」→「ちん」と変化するので、「べーちん」と読まれます。

「詳しいことはわからない」というのは、事を憚って隠すときの常套語だから、為政者のおえらがたにとってマズイことがあったのであろうとは想像できますが、「わからない」のではしようがないなあ。さて、寝るか。

と思っていたのですが、「琉球国由来記」の漢訳版に当たる「琉球国旧記」にもっと詳しいことが書いてあった。要するにおえらがたにとっては、琉球府内や本土向けの「由来記」では隠す必要があるが、チャイナ向けの漢文史料である「旧記」ではばれてもしようがないや、ということだったのであろう。

さて、寝るか。

と思ったのですが、まあ知りたい人もいるかも知れない、いないと思うけど、と思いましたので、以下にご紹介しておきます。

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チャイナの嘉靖年間(1522〜66)に当たるころ、第二尚氏の尚清王(※)は宝剣を一口(ひとふり)持っていた。名付けて「冶金丸」という。

※「琉球王」ではなく本当は「りうきうよのぬし」と呼ばれていた(自称も)であるが。なお、「冶金丸」は今も尚氏に伝わるということだ。

王は側近の虞氏・阿波根実基に、京(山城の京都のこと)に赴いてこれを磨いてくるように命じた。

―――琉球諸島には鉄を産しない。したがって、武器にしろ農具にしろ鉄器は移入に俟たねばならず、鉄器を保有(移入)して住民に提供できたものが政治権力を得たのである。尚清王の命令は、この時期、沖縄ではまだ鉄器の扱いに習熟しておらず、宝剣を磨ぐことのできる技術者がいなかったこと、そして高度な技術を求めて行く先はチャイナではなく「やまと」であったこと、を示している。

阿波根、奉命帯剣、将出城、忽女君神現、送于中山坊外矣。

阿波根は命を奉じて剣を帯び、まさに城を出んとするに、たちまち女君神現われ、中山坊の外に送る。

阿波根(あはごん)が命令をお受けして宝剣を持ち、首里城を出ようとしたとき、突如、女神さまが出現なされ、中山門の外までお送りくださったのであった。

・・・さて、阿波根は京都に至り、良工を探して剣を磨いでもらったのだが、刀工はこの刀を見て、

「莫耶なり」(チャイナの伝説的名剣「ばくや」のようなすごい刀だ)

と思いまして、別の剣に取り換えて阿波根に返したのであった。

そうとは知らずに阿波根は沖縄に帰ったが、このとき、

無女君神之出現。而莫人知之也。

女君神の出現無し。しかれども人のこれを知るなきなり。

女神さまは出迎えに出現しはしなかった。しかし、このとき沖縄の人で、阿波根が持ち帰った剣がニセモノであることに気づいた者は無かった。

・・・そんなある日、突如として

王妃、知非其剣、而告王。

王妃、その剣にあらざるを知り、王に告ぐ。

王妃さまが、この剣がニセモノであることに気づき、王さまにその旨告げたのであった。

王、ただちに阿波根実基に、ふたたび京に上ってホンモノを取り返すように命じた。

「御意」

阿波根は再び京に上り、

留京三年、尽心竭力、多用計策、取得宝剣。

京に留まること三年、心を尽くし力を竭(つ)くし、多く計策を用いて宝剣を取得す。

京都に三年間留まって、精神を最大限に働かせ肉体を消耗させながら、多くのはかりごとを用いてついに宝剣を取り戻したのであった。

かくして帰国したときには、

女君神現、迎於中山坊外。

女君神現れ、中山坊外に迎う。

女神さまが出現なされ、中山門の外までお出迎えになられたという。

ああ、よかった、よかった。

王さまも大いに悦ばれ、阿波根に特別の褒美を与え栄誉ある爵位を授けた。これより阿波根実基の名声は琉球の中と外に大いに聞え、「京阿波根」と讃えられたのである。

だいたい阿波根実基はその性質は剛直にして私無く、勇気と力は人に過ぎ、将来をおもんぱかることはひろく、かつ遠かった。

このために時の側近たちには彼を忌む者も多く、

将以讒言之愬害之、奈無可討之罪矣。

まさに讒言の愬(うったえ)を以てこれを害せんとするも、いかんせん、これを討つべきの罪無きなり。

讒言を用いて彼を陥れようとしたが、なかなか討ち滅ぼすべき罪が見つけられずに困っていた。

パンが無ければケーキを食べるのがおえらがたたちのやり方でございます。讒言を用いても効かないのであれば、実力を用いればいい、とお考えになるのも当然でございましょう。

一日於朝賜茶時、令童子乗間、以匕首刺之。

一日、朝において茶を賜うの時、童子をして間に乗じて匕首を以てこれを刺さしむ。

ある日、王に謁見した後に茶を賜わる機会に、阿波根がくつろいでいるのに乗じて、接待の童子に短剣を以て阿波根を刺させたのであった。

「えい、殺ちてやりまちゅー」

ぶちゅ!

と童子は深々と阿波根の腹を刺したのであったが、

実基手無寸鉄、以空手、撃破童子両股、走出城門、至中山坊外而卒矣。

実基、手に寸鉄無く空手を以て、童子の両股を撃破し、走りて城門を出づるも中山坊外に至りて卒す。

阿波根実基は手に何の武器も持たない空手であったが、童子を引っつかまえてその両足を引きちぎり、そのまま城門の外まで走り逃げたが、ついに中山門の外で死んだ。

そのとき、女神さまが現れた。

女君神、悲傷其人、遂収尸骸而葬焉。

女君神、その人を悲傷し、ついに尸骸を収めて葬れり。

女神さまは阿波根の死を御悲しみになり、その死体をおさめて葬った。

このため、彼の死骸がどこに埋められたのか、政敵たちにも親族にもわからなくなってしまった。

今有坊外、堆石為囲、俗伝京阿波根塚。或然焉。

今坊外にありて、堆石囲を為す、俗に京阿波根塚と伝う。あるいは然らん。

今、中山門の外に、石を積んで囲んだ小さな丘があり、これを一般人民どもは「京阿波根さまのお墓」と呼んでいる。あるいはこれがそうかも知れない。

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「琉球国旧記」巻之一より。

この阿波根の誅殺に王が無関係であったかどうか。状況から見て無関係であったとは考えられない。

また、この京阿波根塚=真和志森の東に、やはり小さな丘があって、これを「君恋嶽」という(「由来記」には「キミコイシ嶽」とある)。この嶽は一説に、尚真王の妹で聞得大君の地位にあった「おとちとのもい金」さま、すなわち「おもろ」に「つききよら」と謳われた女君の館のあったと地であるともいい、京阿波根を守護した「女君神」とは、現人神としてのこの「つききよら」さまではないかともいう(東恩納寛惇「南島風土記」首里条)。もしそうだとすると、そこに王家としては一般に知られてはならぬ女君同士の争いや、あるいは不倫のことも連想され、それゆえに「詳しくはわからない」ことにされたものでもあろうか。

―――いずれにしろ血も涙も無いおえらがたにはイヤになりますね。今日の昼も非人間的な指示が・・・。コノウラミハラサデ・・・

 

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