平成25年4月1日(月)  目次へ  前回に戻る

 

4月1日です。毎年この日はしごとが楽しい。人間が大好き。そして人生が満ち足りていることを感じる。

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しごと大好きなわたしは、今も充実した職場にいますが、むかしは唐の高宗(650〜683)にお仕えしていたものである。

あるとき高宗は長安から東都・洛陽に行幸なさることとなったが、

時関中飢饉、上慮道路多草窃。

時に関中飢饉し、上、道路に草窃の多きを慮る。

この時、長安から洛陽に向かう途上の関中(函谷関以西)は飢饉に悩まされており、あちこちで生活苦からコソ泥が発生していたので、皇帝はそれを御心配になられた。

そこで高宗は、当時監察御使をしていた魏元忠どの(参照)に、道中、草賊どもの被害に遭わないようにせよ、と命じたのである。

コソ泥である。どこでどう見張っていてもちょっとした財物を掠めていかぬとも限らぬ。どのように風紀を厳しくしたところで完全には防げぬように思われた。

「さてさて、どうなさるのかのう」

とわしらはにやにや見ていたが、魏元忠はただちに長安の西京である赤県の牢獄に赴き、

得盗一人、神采語言異于衆。

盗一人、神采語言の衆に異なるを得たり。

収容されている盗人どもの中から、挙措や風貌、言葉遣いがほかのやつらと格段に違っている男を一人選び出した。

そして、彼の縛めを解かせると、

乗駅以従、与人共食宿。

駅に乗ずるに以て従い、人と共に食らい宿す。

自分と同じ馬車に乗せて皇帝の一行に加え、食事も夜寝るときもいつも一緒に過ごしたのであった。

客人として遇したのである。

その上で、

托以詰盗、其人笑而許之。

托するに詰盗を以てすれば、その人笑いてこれを許す。

盗みを防ぐことを依頼したところ、その人はわらって引き受けてくれた。

この人がもともとどのような罪で捕らわれていたのかは知られないが、やはり盗賊の中でも一癖もある者は、監視するにも目のつけどころが違うというものなのであろう、とにかく一行は

比及東都、士馬万数、不亡一銭。

東都に及ぶころおいまで、士馬万数、一銭を亡(うし)なわず。

東都・洛陽に到着するまで数十日、人も馬も数万をかぞえる大人数であったが、とうとう銭一枚も盗まれることはなかったのである。

うーん、魏元忠め、うまくやりおって。わしもしごとを与えてほしいなあ。わしにも機会があればもっとうまくやれたのになあ。

さて、後世の史家曰く、

因材任能、盗皆作使。

材により能に任ずれば、盗もみな使を作さん。

人材を見極め、その能力に応じてしごとをさせていったなら、盗賊だってみな使い物になるであろう。

ところが下らぬ儒者は、「史記」に記されている孟嘗君の、「イヌのようなコソ泥」(狗盗)と「鷄の鳴き声を真似ることのできる物まね師」(鶏鳴)のおかげで秦から脱出できた、という話(いわゆる「鶏鳴狗盗」説話。詳しく知りたい人はグーグルで「鶏鳴狗盗」を引いてください。いくらでも解説が出てくると思います)を批判して、

孟嘗君特鶏鳴狗盗之雄耳、豈足以言得士。

孟嘗君は特に鶏鳴狗盗の雄なるのみ、あに以て士を得たりと言うに足らんや。

孟嘗君は物まね師やコソ泥の親分だった、というだけのこと、士(さむらい)を仲間にしていたとは言い難い。 ・・・・★

などと言っているが、彼ら批評家は、

不知爾時舎鶏鳴狗盗、都用不着也。

知らず、その時、鶏鳴狗盗を舎(お)きては、すべて用いるも不着なるを。

御存知ないのだ。現実にその時には、物まね師とかコソ泥のような者たちを除いては、どこにも使えるやつなんかいなかったということを。

さて、現代は如何なものでしょうかな?

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明・馮夢龍「智嚢全書」巻一より。

★印は、「下らぬ儒者」どころか、宋の大儒・新法党の大改革主義政治家の王安石の言葉(「孟嘗君伝を読む」)です。彼らしく果断に歴史上の人物を評価したものですが、上から目線は否めず、知識・経済・倫理etc.社会のあらゆる部分で指導的立場に立った宋代士大夫の自信過剰、あるいは驕りのようなものを感じますね。

ところで、今日はエイプリル・フールなのでウソついた。

「え? どこがウソなの?」

とみなさん混乱するといけないので、ウソの部分は斜体字で示しておきましたよ。

 

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