平成25年2月21日(木)  目次へ  前回に戻る

 

明日は竹島の日。島根県の竹島の日記念式典の開催とそれへの政府高官の出席に対し、韓国政府は「対抗措置」を取る、と言っておられます。対抗措置の中に「朝鮮漢文資料の閲読禁止」が入ってたりするとイヤなので、今日のうちに読んでおこう。

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新羅の聖徳王(在位702〜737)のころのことでございます。

江陵(かんぬん)の太守に任命された純貞公さまが赴任する途中のこと。

行次海汀昼饍、傍有石嶂、如屏臨海、高千丈。

行次に海汀に昼饍するに、かたわらに石嶂有り、海に臨める屏の如く、高さは千丈なり。

途上の海べで昼飯をとった。その場のそばには石の崖があって、高さは二千メートル近く、まるで海に臨んだ屏風のようであった。

上有躑躅花盛開。

上に躑躅花の盛んに開くあり。

崖の上の方には、つつじの花が今を盛りと咲いていた。

2000mも離れたところの花らしきものが「つつじの花だ」とそう簡単にわかるものであろうか、という疑問もわくかも知れませんがぐっと我慢です。

公のおくさまは、上下のひとびとから「絶世なり」と謳われた、お美しく可憐なる水路夫人であられた。

水路さまは彼方のつつじの花を御覧になられ、おっしゃった。

折花献者其誰。

花を折りて献ずる者は、それ誰ぞ。

「あの花を折り取って、わらわに捧げてくれる、愛の騎士はどなたぞえ?」

左右の者、顏を見合わせ、曰く、

非人跡所到。

人跡の到るところにあらず。

「ニンゲンの足で行けるところではございませんぞ」

と。しかし

「だめ。ほしいの」

可憐なる頬をわずかに桃色にいろづかせながらダダをこねる水路さまに、まわりの者が困り果てていると、ちょうどそこに、

有老翁牽牸牛而過者。

老翁の牸牛を牽きて過ぎる者あり。

めうしを牽いたじじいが通りかかったのであった。

じじい、奥様の言葉を聞きつけ、

「ほっほっほ、そんなに花が欲しうござるか」

と言うや否や、めうしをその場に残し、ひょい、ひょい、ひょい、ひょい・・・とたちまち2000mの崖を昇りはじめた。

「なんと身軽なじじいぞ」

とひとびと仰ぎ見ているうちに、あっという間に頂上に達して、今度はまたすごい速度で(まるで滑り落ちるかのような)崖を降りてきた。

ふわりと地面に降りる。

そして、水路さまに折り取ってきた花を献じ、あわせて歌いて曰く、

紫布岩乎過過希執音乎手母牛放教遣。

吾肹不喩慚肹伊賜等。

花肹折叱可献乎理音如。

歌い終わると牝牛を牽いて、

其翁不知何許人也。

その翁、いずれの人なるやを知らず。

じじいは名乗りもせずにどこへやら去って行ってしまった。

「うふふ」

水路夫人はいくぶんうるんだ眼で、じじいの後ろ姿を見送った・・・・ということである。

じじいの歌った歌、漢文としては意味を為しません。これは「郷歌」と呼ばれる古代朝鮮歌謡なのです。一部の漢字はそのまま漢字、一部の漢字はその音価によって古代朝鮮語を表す「吏読」(りとう)文―――要するに「万葉仮名」の朝鮮版(万葉仮名が「吏読」の真似だ、ともいわれますが、同時多発的な文化的営為と考えた方が事実に近いのではないか)―――で書かれているのである。

註釈(「郷歌 注解と研究」(中西進・辰巳正明編・新典社選書22(2008刊))に沿って読んでみます。

紫布岩乎過過希執音乎手母牛放教遣。

朝鮮語は今のハングル語と同様、語順が漢文(主語→述語→目的語)とちがって、主語→目的語→述語になります(要するに日本語に同じ)。

「布」は朝鮮音を表す。先の「過」は前置詞で「よぎって」、後ろの「過」は動詞で、「希」は朝鮮音を表し、「過希」で「過ぎる」。「執」が動詞、「音」は持続を表す朝鮮語音、「手」「母牛」はそのまま。「放」は動詞で「放つ」、「教遣」は「〜せしめる」の使役を表す助動詞。

紫の岩のよこをよぎって通り過ぎ(たところで奥様の言葉を聞き)、握りつづけていた手から牝牛を放してどこかに行かせた。

吾肹不喩慚肹伊賜等。

「肹」(きつ)は目的格を示す助詞、日本語の「を」に該当。「不喩」の二字は後ろの動詞を否定する(「〜しない」)。「慚肹伊」(ざんきつい)は、「肹伊」が動詞の活用語尾に当たり、「恥ずかしがる」あるいは「嫌悪する」の意。「賜」は動詞のうしろについて尊敬を表す助動詞(日本語の「〜したまう」と同じ)、「等」は朝鮮音を表し「仮定」の活用語尾。

吾を(じじいだからと)嫌悪しないでくださるのでありましたなら、

花肹折叱可献乎理音如。

「肹」は上と同じで「〜を」、「折叱」で「折る」、「可」は「〜して」の意の助詞、「献乎」で「ささげる」という動詞、「理」は「意志」をあらわす助動詞、「音」は「尊敬」の助動詞、「如」は「断定」の助動詞。

花を折りてささげ申し上げようと思うのでござる。

なんとか読めました。

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以上、高麗僧・一然(1206〜1289)の編みし「三国遺事」巻二より。

ところで、この水路夫人、おそろしいぐらいいいオンナだったそうでございますよ。ひっひっひっひっひ。

一目彼女を見ただけでその容色に狂ってしまい、掠奪してでも手に入れようとする男が次々現れたという。

―――へへへ。

―――たまらねえぜ。

―――どうだい、あの腰のあたりの肉づきは。

―――力づくでもモノにしてえもんだ。

―――なあに、だんながいたってかまうものかよ。

・・・みたいになるわけです。

もちろん、わたしはならない・・・と思いますよ。ぜったい。しかし、そうなってしまう愚か者がたくさんいたわけだ。

ニンゲンが相手であれば、知勇兼備の人物であった夫の純貞公が手を出させなかったのだが、相手が精霊であればそう簡単にはいかない。

たとえば・・・・

おお、しかし、もうたまらないぐらい頭痛い。今日は飲み会なれども泡盛を薄くして舐めただけです。それでもこのクリティカルな痛さ。何か原因がありそうですが・・・。ということで、健康上の理由にて今日はここでおしまい。水路夫人を狙って劣情を滾らせるエロ精霊どもの物語、みなさんも知りたいでしょうなあ、ひっひっひっひ・・・が、次回以降にいたしとうございます。(韓国の対抗措置によって禁じられなければ、じゃが)

 

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