平成25年2月17日(日)  目次へ  前回に戻る

 

明日から二三日更新しません。所用で寒い方へ行かないといけなくなるみたい。

箱根山の噴火も近いというのに・・・。

最後になるかも知れないので、重要なことを言い置かねば・・・。(な、なんにしようかな・・・)

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大道甚夷、而人好徑。

大道は甚だ夷なるも、人は徑を好む。

大いなる「みち」はたいへん平坦であり、歩きやすい。ところがニンゲンというものは近道を取ろうとするものなのじゃて。

はあ。(ト、ため息一つ。)

朝甚除、田甚蕪、倉甚虚、服文綵、帯利剣、厭飲食、財貨有余。

朝甚だ除、田は甚だ蕪にして、倉は甚だ虚なるも、文綵を服し、利剣を帯び、飲食に厭き、財貨余り有り。

朝廷の建物はきらびやか、田圃は荒れ放題、穀物倉庫はからっぽ。

なのに、きれいな服を着、すばらしい剣を帯び、飽きるほど飯を食い酒を飲み、宝物だけはたっぷりある。

「除」は「塗」の仮借。

是謂盗誇。非道也哉。

是を盗誇(とうこ)と謂う。道にあらざるなり。

こんなのは、「にせの成功」である。「みち」ではない。

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「老子」五十三章より。

要するに、一次二次産業をないがしろにして、貨幣操作で儲けるやつらが社会の上層を占める、そんな世の中は間違っている、と言うことなのかな?もしそうだとすれば、

―――マジメに働いていたはずなのに、いつの間にか負けていた、負け犬の遠吠えだ。気にする必要なない。

と、お偉方もあのコも言うけれど。

おれは老子とともに行きたい。まことの「みち」の彼方へ。

 

・・・・・・このまことの「みち」を行くと最後は↓まで行って「みち」が無くなる古代の水辺まで行く、と思うのですが、どうかな?

古への大御世には道といふ言挙げもさらになかりき。故(かれ)古語(ふるごと)に、あしはらの水穂の国は神ながら言挙げせぬ国といへり。・・・・・・物のことわりあるべきすべ、万(よろづ)の教へごとをしも、何の道・くれの道といふことは、異国(あだしくに)のさだなり。 

むかしむかしの大いなる時代には「道」などという抽象概念で無理にものごとを指さなかったものだ。だから、むかしの言葉に「葦原の瑞穂の国は神のままの、抽象概念でものごとを指さない国なのだ」と言っているのである。(「道」というのは即物的な「道路」の意味しかなかったのだ)・・・・・モノゴトの理法、いろんな教義のこと、を「何たらの道」「かんたらの道」などという言い方をするのは、異国のやり方である。(本居宣長「直毘霊」(なほびのみたま))

 

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