平成24年12月28日(金)  目次へ  前回に戻る

 

肝冷斎は爆発後、いまだ帰宅できず。今日もわたくし肝泥斎が更新いたします。今日も有名古典から。

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崔瞿というひとが(老子に比せられる周の賢人)老聃に問うた。

不治天下、安臧人心。

天下を治めずして、いずくんぞ人心を臧(よ)からしめんや。

「世界を平和にできなくて、どうやって人々の心を善ならしめることができましょうか?」

これを聴いた老聃、

「うひゃあ!」

とまずは驚いた。

女慎、無攖人心。

なんじ、慎んで人心を攖(エイ)する無かれ。

「攖」は「迫る」「騒がせる」の意。

これ、おまえ、滅多なことを言うて人の心を乱すようなことをするでない。

そして崔瞿をにらみながら声を低めて言うに、

人心排下而進上、上下囚殺、淖約柔乎剛強。

人心下を排して上に進み、上下囚殺して淖約は剛強に柔なり。

人の心は下位に落ちるのを嫌がり、上位に上がろうとするもの。このため上も下もお互いを取り殺さんばかりに争い、弱いもの(「淖約」(しゃくやく))は剛強なるものの前では屈せざるを得ないのだ。

その争いの激しさは尖ったもので突っつきあい、火をも焦がし氷をもさらに凍らせるほどである。

その争いの素早さは

俯仰之間而再撫四海之外。

俯仰の間に四海の外を再撫す。

俯いていた頭を持ち上げて空を見上げる―――そのわずかな時間の間に地球の外側に二回触れてこられるほどである。

(一秒間で地球を七回半回る、という光の速度よりは少しは遅い・・・のかな?)

人の心というものは落ち着いているときには静かだが、動くときには空にも躍り上がるほど。飛び上がれば繋いでおけないもの、それが人の心なのじゃぞ!

「し、失礼しました」

と崔瞿が畏まると、老聃も平静を取り戻し、

「うむ。わかればよろしい」

と言うて、むかしのことを語りはじめたのであった。

・・・昔むかしのこと。

黄帝始以仁義攖人之心。

黄帝はじめて仁義を以て人の心を攖す。

黄帝が最初に(文明を開き)ニンゲン関係を律する仁と義という考え方を作ったので、人の心は騒ぎ乱されたのだ。

人は他人より上になろう、下になるまいとして争いはじめた。

だから、

堯舜于是乎股無胈、脛無毛、以養天下之形。愁其五蔵以為仁義、矜其血気以規法度。然、猶有不勝也。

堯・舜、ここにおいて股に胈無く、脛に毛無く、以て天下の形を養う。その五蔵を愁いて以て仁義と為し、その血気を矜(ほこ)りて以て法度を規す。しかるになお勝(た)えざるあり。

その後の堯帝や舜帝は、このために腿の肉がすりへり、脛の毛が抜けおちるほど働いて、なんとか人民たちを食べさせた。そして人民たちの内臓を苦しませながら仁義の徳を身につけさせ、血液や気力を盛んにさせて法規を定め守らせたのだが、それでもまだ人々を押さえこむことができなかったのだ。

堯はついにまつろわぬ敵を討伐して、ようやく天下に平和をもたらしたのであるが、天下がこれで治まったわけではない。

夏・殷・周の三代に至るや、天下には桀のような悪王、跖のような大盗、儒者や墨者のような思想家集団が現れ、ひとびとは疑いあい、欺きあい、否定しあい、謗りあい、ついに

天下衰矣。大徳不同、而性命爛漫矣。天下好知、而百姓求曷矣。

天下衰えたり。大徳同じからずして性命爛漫(らんまん)たり。天下知を好みて百姓求曷(きゅうかつ)たり。

「爛漫」は「散乱」の意。「求曷」は「糾葛」(きゅうかつ)の音を仮借したもので、「葛のように糾(あざな)いもつれる」こと。

天下は衰亡したのである。大いなる徳についての同意が無いため生きる力は散り乱れてしまい、世の中が智慧を重んじるようになって人民たちは葛のつるのように複雑に相争うようになってしまったのだ。

こうしてノコギリやオノを用いて首や手足に縄をわたし墨を引いて切り落とす制度、椎で殴りつけ、錐で孔をあける規則ができあがり、世界中のひとびとは戦慄するばかりで安らぐことは無くなった。

罪在攖人心。

罪は人心を攖するにあり。

そもそもの原因は人の心を騒がせたことである。

現代(紀元前三世紀ごろ)に至るや、見るがよい。

賢者伏処大山深岩之下、而万乗之君憂慄乎廟堂之上。

賢者は大山深岩の下に伏処し、万乗の君は廟堂の上に憂慄す。

(社会を指導すべき)賢者は(いつ人に売られるかわからないから)深い山中の巨岩の下に暮らしているし、一万台の戦車を有する大国の君主はその居城の奥深くで(いつ下剋上によって殺されるかわからないから)憂いながら怯えているではないか。

死刑になる者は枕を並べ、枷をつけられた者たちが町に溢れている時代だ。

その中を儒者や墨者が腕を振り足を振り上げながら堂堂と闊歩しているのだ。

ああ。甚だしいかな。彼らには恥じや羞らいというものがないのだ。聖人の智というものこそ人々を縛る枷であり、仁義の徳こそひとびとの手足や目・耳に穴をあける刑具であり、いにしえの賢い王者らこそ悪王や大盗を誘導する信号弾(「嚆矢」(かぶらや))ではなかったのか。

だからわしは言うておるのだ、

絶聖棄智而天下大治。

聖を絶し智を棄て、しかして天下大いに治まるなり。

聖人というものを絶滅させ、智者のわざを棄て去れば、ニンゲン社会は大いなる平和に到達するであろう。

と。

儒者や墨者をTVや新聞に出てくる「論客」とか「コメンテーター」に当てはめてみればいいのかな。

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「荘子」在宥篇・第四章。ルーピーたちの方が世の中を善く治めることができた・・・ということ? 

ちなみに「○○の嚆矢である」の「嚆矢」は荘子のここが語源。勉強になりますね。勉強して勉強して「上」を目指しましょーう。

 

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