平成24年9月30日(日)  目次へ  前回に戻る

 

今日は一日で25キロぐらい歩いたので疲れた。足痛い。しかしこれでも水戸黄門や八兵衛には敵わないのである。精進せねばならぬ。

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15世紀のころでございます。(明の成化年間(1465〜1487)に当たるという)

今は那覇市に含まれておりますが、銘刈(めかる)の村に銘刈翁子(めかるおじさん)なるものがおった。

ある日、この銘刈おじさんが

出天久野、散散。忽見有一女人、送法師従山降到。

天久野に出でて散々す忽ちに一女人の、法師を送り山より降り到るを見る。

天久(あめく)の野に行ってうろうろしていたところ、ふと、向こうの山から法師が降りて来るのであるが、その後ろから女性が一人、ついて来るのが目に入ったのである。

向こうの山、とは、

在泊邑西。

泊邑の西にあり。

泊(とまり)の村の西にある山である。

「・・・ほほう、法師とおなごが、のう」

その後、銘刈おじさんが注意して見ていると、

山半有小洞之地。其洞中、有一井水流、至其外也。或有法師、送女人登山、而他法師入洞中、半路而不見其形也。

山半に小洞の地あり。その洞中に一井水の流れてその外に至るあり。あるいは法師の、女人を送り山を登り、而して他(か)の法師の洞中に入り、半路にしてその形を見ず。

↑言わんとすることはわかるのですが、難しい構文ですね。もとになった「お話」があって、それが和文脈で主語やら述語やらあまりはっきりしないのを、そのまま漢文にしてしまった・・・からかも知れません。

山の半ばあたりに小さな洞穴があって、その洞穴から泉(ガー)の水が流れ出て来ているのであるが、あるときには法師は、女性のあとについて山を登って行き、(法師は)その洞穴の中に入って行って、山の途中で姿を消してしまうのである。

数日後、ついに銘刈おじさんは、その法師をつかまえて、問うた。

法師是誰、女人是誰。

法師これ誰ぞや、女人これ誰ぞや

「おまえさんはいったいどういう者じゃ。そしてあのおなごはどういう者なのじゃ?」

法師、答えて曰く、

我是住居此地者也。

我はこれ、この地に住居する者なり。

「わたしはこの山の洞穴に棲んでいる僧にございます。

おなごとは?」

「おまえさんが毎日つけたりつけられたりしているあのおなごじゃ」

「おお、銘刈おじさん、あなたの目には見えるのですな。よろしい、教えて差し上げましょう、

他女人、是栖居山森者也。

他(か)の女人は、これ山森に栖居する者なり。

あの女性は、この山の森の中に住んでおられる方なのです」

「なんじゃと!」

翁子驚喜、題奏之于王庭。

翁子驚喜し、これを王庭に題奏す。

おじさんはびっくりし、また喜び、このことを王の政府に届け出た。

王さまも驚き、その臣下に命じてその報告が真実であるか否かを調べさせた。

臣下はその洞穴に行き、お香を捧げて拝礼したところ、―――なんということであろうか。

其香自然焼燃。

その香、自然に焼燃せり。

そのお香が、自然に発火したのである。

ここにおいて銘刈おじさんの報告は真実であることがわかった。そこで、この地に宮社を建てたのである。

すると神託が下った。

我熊野権現也。女人是弁財天女。今為普済衆生、而出現此地也。

我は熊野権現なり。女人はこれ弁財天女なり。今、衆生を普ねく済(すく)わんとして、この地に出現せり。

「わしは熊野権現である。女人は弁財天女である。今、人民どもをあまねく救済しようとして、この地に出現したのである」

と。

また別伝では、翁子(おじさん)もまた常人にあらず、という。

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「琉球国旧記」巻七「天久山三社併聖現寺」より。

銘刈翁子の言動が何だか少し不自然です。「王府の密偵」?ではないか。そうでないなら、確かに「常人でない=神仙である」と考えないと、何だか腑に落ちない性格づけ。

 

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