平成24年8月7日(火)  目次へ  前回に戻る

 

東京から裏肝冷斎が送ってくれた書物を今日もにやにやと読んでおります。

この部屋はどうもシックハウスぽいので、目が赤くなったり鼻血が出たりいろいろたいへんですが、だんだん書物が溜まってくるので、うれちいの。

さて、肝冷斎が何人か居ることは読者のみなさまには先刻ご承知のことであろう。童子の肝冷斎二世、東京に潜む裏肝冷斎、あるいは行方も知れぬ影肝冷斎や人間の形を持たぬどろどろの亜肝冷斎など。そのほか、正確には肝冷斎とは言い難い、傀儡、2号、鈍介、あやつり、ロボ太郎など・・・。また、それらのどれよりも優れた存在であるわしのような「高位肝冷斎」もいるわけである。

しかし、そのわしにも肝冷斎は多すぎて、その全体像を帰納的には把握しづらい。

そこで演繹的に定義づけします。

肝冷斎とは、「人の持っていなそうな書物を持つ(決して「読む」ではない)」のが大好き、ということが共通点となっているところの、「おいらは肝冷斎でちゅ」と自ら名乗っている者たち、のことであり、実際には一定の常態を持たず、時とともにつねに変化(へんげ)する存在であるのだ。

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ところで、あなたは、いにしえの賢者・王寿のことを聴いたことがありますか。

いにしえの賢者・王寿はまだ若いころ、周の都への道を、書物を背負って歩いていたそうだ。

道に徐馮というおとことすれ違う。

徐馮、王寿に曰く、

「これこれ、おまえさん、

事者為也、為生於時。知者無常事。

事なるものは爲(い)なり、為は時に生ず。知者は常事無し。

事(こと)というのは人の行為である。人の行為は時に応じて行われるものであるから、知恵ある者はいつも同じ事を行ったりはしない。

というし、

書者言也、言生於知。知者不蔵書。

書なるものは言なり。言は知に生ず。知者は書を蔵せず。

書物というのは人のことばを載せているものである。人のことばは知恵から出てくるものであるから、知恵ある者は知恵を定式化した書物を所有するなんてことはしない。

というぞ。なのに、

今子何猶負之而行。

今、子、何ぞなおこれを負いて行くか。

今、おまえさんは、どうして書物なるものを重たげに背負って歩いて行くのか」

「うーーむ」

王寿はその言葉を聞いて深く感じ入り、その場で背負子を下して、

焚其書而儛之。

その書を焚き、これに儛(ぶ)す。

背負っていた書物を焼き捨て、(重い荷物が無くなってさっぱりしたのを悦び)踊りをおどった。

・・・・ということです。

ああ、

故知者不以言談教、而慧者不以蔵書筐。

故に知者は言談を以て教えず、慧者は蔵書を以て筐(きょう)せず。

だから、いにしえから言われるのである。「知恵あるものは談話によって教えることはない(談話のもとになる知恵を伝えようとするのである)。聡明なるものは蔵書を箱に入れて大切に保存しない(書物のもとになる知恵そのものを大切にする)」と。

世の中のひとはそこのところを誤って、談話によって教え、蔵書を箱に入れて保存しようとする。

王寿復之、是学不学。

王寿これに復す、これ学ばざるを学ぶなり。

王寿はその過ちを乗り越えて、本来賢者があるべきすがたに戻ったのである。これは、ふつうには学ぶことができないことを学びとった、ということである。

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「韓非子」巻六・喩老篇より。

わたくしこの話の、書物を負うて、おそらくは王室に認められ仕官・出世しようという成功を夢見て道を行く王寿には自分の若い日の姿を重ねてしまい、なつかしい感じがいたしますよ。誰かに何か言われてすぐ影響される姿も何か自分に似てて好きです。書物を焼いたら、やっぱり踊ってしまいますよね。わたしには徐馮がいなかったので、今も書物を抱えたままなのだが。

 

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