平成24年7月9日(月)  目次へ  前回に戻る

 

暑くなってきたし、やる気ない。われら肝冷斎族はもともと夏の三か月と冬の三か月は何かをやるようにはできていない生物なので、夏場はダメである。しかし春と秋がいいかというとそんなこともありません。優勝劣敗の帝国主義世界では滅びゆく宿命であったともいえよう。

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しかし、そういう優勝劣敗法則に抵抗しようとしたひとたちもいるわけでございます。

・・・少年は、まことの正義の鉄槌がいつの日か彼らの支配を打ち破ることができる―――そんな夢を見られるだけの瞳の輝きを持って、日本にやってきたのである。

その時、彼は十二歳、時は成泰帝の丙午年、日本では明治三十九年であった(1906年である。日露戦争の直後である点、注意)。

少年は叔父の黄興(ほあん・ふん)とともに衆議院議員・柏原文太郎(茨城・香取のひとである)のもとに寄宿し、日本国の小学校に入った。礫川(こいしかわ)小学校である。次いで神田正則中学校に進む。

この間、父の黄文葛(ほあん・ヴぁんかっと)はフランス政府に囚われ、日本から香港に潜入していた叔父・黄興は密造火薬が爆発して捕らえられ、崑崙島に流刑さる。

少年はもはや祖国を救うには、文事によってはかなわず、軍事を学ばねばならないと悟った。

だが、柏原らの奔走にもかかわらず、日本政府はフランス政府の許可無き者を軍学校に採用することはできないとの決まりである。そこで少年は清国に密入国し、広東の籍を入手して北京の袁世凱政府の軍学校に進んだ。

入学後の成績は優秀、わずか一年余で師友の称賛するところとなるが・・・。

ああ。

天に命あるか。

成泰丁巳年(1917。大正六年である)、病によりて卒す。齢二十三であった。

弔詩に曰う、

雨憾雲悲万里昏、   雨は憾(うら)み雲は悲しみ万里昏(くら)く、

書来一字涙千痕。   書来たりて一字に涙千痕たり。

 雨は悼み、雲も悲しむからであろうか、今日は見渡す限りが暗い日だ。

 知らせがもたらされた、その一字一字ごとに千の涙のあとが残る。(君が死んだ!というのだ・・・)

寒風易水荊軻去、   寒風の易水(えきすい)に荊軻は去り、

孤塚燕京杜宇存。   孤塚の燕京(えんけい)に杜宇のみ存り。

 むかし、(今の北京郊外の)易水のほとり、秦帝を刺さんと荊軻は寒風の中を旅立った。

 いま、同じような壮士である君は、燕京(ぺきん)のさびしい墓に葬られ、そこではホトトギスだけが鳴いているだろう。

北斗望時揮怨涙、   北斗望めば時に怨みの涙を揮(ふる)い、

朔風吹到想忠魂。   朔風吹き到れば忠魂を想わん。

 北斗星を見上げて、ボクは天を怨んで流す涙をぬぐおう。

 北風が吹き来るときは、いつも遠く君の愛国忠義のたましいを思い出すよ。

越南何日重恢復、   越南は何れの日にか重ねて恢復し、

応為招君喚九原。   まさに君を招きて九原に喚(よ)ぶべし。

 いずれの日にか、われらが祖国―――ヴィエトナムは再び独立するだろう。

 その時、君のさまよう御霊を広漠たる九原に呼び出しに行き、この地で長く君とともにあろうと思う。

「寒風易水、荊軻去る」の句はもちろん、史記・刺客列伝で、刺客の荊軻が出発に当たって歌うた「風蕭々として易水寒し、壮士ひとたび去ってまた還らず」を踏まえる。

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ケ搏鵬・播佩珠等撰「越南義烈史」(1918)より。原漢文は東洋文庫だか何だかにしか無いらしいので、われら在野には読むことができぬが、幸い後藤均平氏の名訳(刀水書房1993)があるので讀めるのである。最近ヤボ用あって部屋の中を片付けているので、近年引用いてなかった本がたくさん出てくるんですわー。なお、弔詩の部分は原漢文が載っているので、読み下しは必ずしも後藤氏にしたがわなかった。

ちなみに少年の名は黄文紀(ほあん・ヴぁんき)。いわゆる「東遊運動」によって、越南独立の日を夢見て日本に来たのです。少し後の世代になると、胡志明(ほー・ちみん)のようにフランスに行き、国際共産主義運動に巻き込まれていくことになる。

ところで、さきほど五月闇の中、小石川小学校の近くを通って帰ってきたが、黄文紀の遊魂は今どこにあるか。独立ボケの国にはいないだろうなあ。

 

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