平成24年5月11日(金)  目次へ  前回に戻る

 

なんとか週末でちゅう。

なお、昨日の問題の答えは、「極」でした。「木」に「又」「了」「一」「口」と加えていくと「極」になりますねー。

はい、では、後は肝兵衛さんにお任せします。今日はおんなの人複数とお食事したので精神が鈍ってしまっているかも知れませんので、がつん、といつもに増してマニアックなやつお願いいたちまちゅよー。

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黒田肝兵衛でござる。一昨日の続きにござりまする。

孔子の

「もしわしを用いてくれる者があれば、わしは為東周乎

という発言の中の「東周」とは何か、という宿題への回答にございます。

答えは―――

・・・・・・大きくわけて第一説と第二説に分かれます。

(第一説)東周は地名

「東周」とは、みなさまご承知のように世界史用語では紀元前770年の「東遷」以降の周の国のことである。しかしながら、孔子の時代にはそんな「時代区分」としての「東周」という概念があったわけではない。

清・劉宝楠の「論語正義」によれば、古来、ここでいう「東周」は「地名」であると解されてきた、という。

春秋に次のような記述がございます。

昭公22年(紀元前520) 王子猛入于王城。(王子猛、王城に入る。)  周王家の王子である姫猛が、王城の町に入った。

昭公26年(紀元前516) 天王入于成周。(天王、成周に入る。)  周王御自身が、成周の町に入った。

この条に「春秋三伝」の一である「公羊伝」が注して言う、

王城者何。西周也。成周者何。東周也。

王城なるものは何ぞや。西周なり。成周なるものは何ぞや。東周なり。

「王城」というのは、「西の周」のことである。「成周」というのは、「東の周」のことである。

長い物語があります。

周の文王は「豊」の地に拠っていたが、その子・武王は「鎬」に拠った。武王が殷の紂王を放伐して天下の主となった後、この「鎬」の町を王都にしてこれを「鎬京」と称し、天下のひとびとはこれを「宗周」(「本家・周」というような意味ですね)と呼んだ。武王の後、その弟の宰相・周公がこの「宗周」の東の方に「郟辱」の町を造り、これを周の東の都として、「王城」と称した。

時遷り、美女・褒似に惑溺した幽王の時、異民族・犬戎が侵入し、「宗周」の町は滅ぼされた。このとき、平王が東都「王城」に即位して、周の国祚を継いだ。(いわゆる「東遷」)

この時以降、東都(これは「雒邑」とも称した)の町を「東周」と称し、もとの都・「宗周」を「西周」と称するようになったのである。・・・・・・・

すなわち、「東周」とは、周の東遷後の都を指す地名であり、そこから派生して、王都を移してからの周王国のことである。

―――では、この周王国は、一体どういう国と把握されていたのか。

(第一説の1)「東周」はかっこいい!

唐代の「論語筆解」の説くところによれば、

東周、平王東遷、能復修西周之政、志在周公典礼。

東周なるものは、平王東遷してよくまた西周の政を修む、志は周公の典礼にあり。

孔子が「東周を為さん」と言っている「東周」とは、平王が東遷した時の都である。平王は東遷して、もう一度「西周」時代の権威を取り戻すことに成功した。孔子は「西周」時代の周公の政治・社会を復興しようとした人であるから、自分を登用してくれれば、平王がしたように古代を修復した「東周」の国づくりをもう一度することができる、と考えて「東周を為さん」と言ったのである。

(第一説の2)「東周」はかっこ悪い!

「はあ? 何寝ぼけたこと言ってますのや」

と河南なまりで登場したのは、北宋の鴻儒・程氏兄弟である。

兄貴の程明道先生はいう、

蓋孔子必行王道。東周衰乱、所不肯為也。

けだし、孔子は必ず王道を行う。「東周」の衰乱はあえて為さざるところなり。

「おいおい、孔子さまは王者の道を行おうとされた方やぞ。これに対して、「東周」に周が都を移したころは、周王朝は衰え、内部は乱れていた時代だ。どうしてそんな時代のような状態にしよう、と孔子がおっしゃるはずがあるんや?」

弟の伊川先生がいう、

東周之乱、無君臣上下。孔子曰、如有用我者、吾其為東周乎。言、不為東周也。

「東周」の乱は君臣上下を無みす。孔子曰く「もし我を用うる者あらば、吾はそれ、東周を為さんや」と。言うは「東周」を為さざるなり。

「兄貴の言うとおりでっせ。「東周」の乱れは、君臣や上下という秩序を否定するもでしたんや。孔子が「もしわしを用いてくれる者があったら、わしは、「東周を為さんや」」とおっしゃったのは、「乎」の字を「反語」と解さなければならぬ。

すなわち、孔子は「わしは「東周」のような状況にはしないぞ」とおっしゃったのや」

―――そこへ、

「あいや! ちょっと待ってくだされ」

と登場したのは、おお、これは南宋の大儒・朱晦庵先生(朱子)であられる。

(第二説)「東周」は地名にあらず

「みなさん、皇侃の「論語義疏」の説をお読みになっていないのか。彼は何晏の説をとって、孔子のおっしゃりたかったことは、

我当為興周道也。魯在東、周在西。云「東周」者、欲於魯而興周道。

我はまさに周の道を興さんとす。魯は東に在り、周は西に在り。「東周」と云うは、魯において周の道を興さんと欲するなり。

わしは、「周」(の文王・武王・周公)の目指した政治社会を今の時代、この地に再興しようとしているのだ。ところで、この「魯」の地は、「周」の地から見て東にある。「東の周」というのは、この「魯」の地において「周」の政治社会を復興しようとすることを言ったのである。

としている。わしの大ベストセラー「論語集注」には、この説によりまして、

為東周、言興周道於東方。

「東周」を為さん、とは、「周道を東方に興さん」ことを言うなり。

「東の周」を造るぞ、とおっしゃっているのは、「周の道をこの東方の地に再興する」ということをおっしゃっているのである。

と書いておきましたぞ。後世の科挙試験の受験者はこの説を勉強しておくように。

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ああ、おもしろかった。このひとたち、こんなことばかり議論しあっていて、ほんとに楽しかったでしょうね。みなさんはどの説がお好きですか。わたしは勃興する近世士大夫層の理想を背景にした朱子の「周の道を東方に興す」という解釈が好きですが、孔子がほんとに言ったとすれば(※注)、その時代背景を考えると、(第一説の1)がいいところだろうなあ、と思っております。しかし、明代以降の科挙を受ける人はもちろん朱子の説で回答してくださいね。

なお、もう一人、おもしろい解釈をしている人がいるのでご紹介しておきます。

(第二説の2)「周道」とは「周」の統治

本朝の名儒・荻生徂徠は朱子と同様に「周道を東方に興す」という説に基づきながら、

周道を東方に興す、とは、王室を尊びて以て天下に号令す、管仲の事なり。而して三家を抑ふるは道(い)ふに足らず。後人或ひは孟子に執し、仁義もて邦を治むるを以て説を為す。則ち何ぞ必ずしも周と言はん也(や)。「論語徴」

「周道を東方に興す」というのは、衰亡しつつあった歴史上の周の国の王室を尊重して、これを輔佐して天下に命令をしようということであり、これは孔子より前、斉の管仲が斉の桓公を助けて実行しようとしたことである。魯の公族・三桓氏の勢いを抑制して、魯公御自身の権威を再興することなど当たり前のことであろう。ところが、後世の研究者どもは、「孟子」の思想に凝り固まってしまい、「周道を興す、というのは(周の初期のような)「仁義」を以て政治を行うことを言うのだ」ということばかり言っている。ほんとにそうだとすれば、孔子はわざわざ「周の道」などと言わずに単に「道を東方に興す」といえばよかったではないか。

孔子が覇道のひとである管仲を真似ようとしていたのだ、などと言うと、孟子以降の歴代の儒者から見れば、聖人・孔子さまに対しての「あわわわ」と震えるほどのすごい誹謗だということになるのですが、徂徠先生や南宋時代に朱子などと大論争をした事功学派から見れば当たり前のことなのでございます。

 

(※注)孔子はこの公山弗擾の乱などの後で、魯の国で活躍しはじめる政治家なので、この時点で「周の王道を復活させる」とか「周みたいな失敗はしないぞ」とか言ったとは、わたしには思えないのですが・・・・。

なおこの「公山弗擾」章は、実は、魯公を無みする下剋上の三桓氏をさらに無みしようとする下剋上の公山弗擾の招きに孔子が(結局はそうしなかったといえ)応じようとした、ということで、その行為を名分論的にどう解釈するか、そちらの方でまたすごいエネルギーを使い果たすような大議論が、古来展開されているので、それがまたおもしろくてしようがない、のですが、史実じゃないんだからエネルギー使うだけ無駄だよ、と誰か教えてやってほしいです。

ほんと、むかしの人に教えてやりたくてやきもきするわい。この黒田肝兵衛のように頭が良すぎるのも困ったことじゃのう。がっはっはっはっは・・・・。

 

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