平成24年4月10日(火)  目次へ  前回に戻る

 

火曜日も眠いねー。

ネタ切れなので、今日も昨日同様、銭梅溪先生に一言いただくこととしました。

・・・・・・・・・・・・・・・

@   おおよそ花とか木とかいうものは、雨露のめぐみがあれば育つものではあるのだが、

欲其本根之蕃茂、花葉之鮮新、非培養不能也。

その本根の蕃茂、花葉の鮮新を欲せば、培養にあらざれば能わざるなり。

根っこをどんどん広げてやろう、花や葉をあざやかにあるいは清らかに開かせようとすれば、じっくりと養い育ててやらねばならないものなのである。

うちのおやじが、昔、ホウセンカの花の苗を数十鉢もらってきて、庭の石台の上に置き、朝な夕なに水を与え、たいへん大切にしてやったことがあった。

すると、

及花開時、千枝万蕊、五色陸離、竟有生平未経見之奇者。

花開くの時に及びて、千枝万蕊、五色陸離として、ついに生平いまだ経て見ざるの奇なるものあり。

やがて時満ちて花が開くと、枝は千本も、花は一万もついて、五色のいろあいもくっきりと、これまで一度も見たことのないような素晴らしい状態になった。

おやじはこれに満足して、翌年は少しばかり手を抜いて世話をした。

すると、咲いた花は

是単葉常花、平平無奇矣。

これ単葉常花、平平として奇無し。

葉の茂りも単純、花もあちこちで見るのと同じで、ふつうの、あんまり大したことのないものになってしまった。

おやじは残念そうにしていたが、よくよく考えてみると、

知培養人材、亦猶是耳。

人材を培養するもまたなおかくのごときのみなるを知る。

人材を育てるということも、これと同様なのだ。

てしおにかけて育てれば、人は育つであろうが、少し手を抜くと平平凡々なのが出来上がる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

A   ・・・と偉そうに言っておりましたら、質問がありました。

毎見叢莽中時露好花一枝。則誰為之培養耶。

つねに見る、叢莽中に時に好花一枝を露すを。すなわち誰かこれが培養をなすや。

「野の草むらに中に、往々美しい花が一本だけ咲いていることがありますよね。あれは、いったい誰が手を焼いて育ててやったということになるのでしょうか?」

うむうむ。よいところに気づいたのう。

本根有花、雖不培養、亦能開放。

本根に花有れば、培養せずといえどもまたよく開放すなり。

根っことなっているものが花を開く力を持っていたなら、誰かが手をかけてやらなくても、よく花を開くことができるのである。

然狂風撼其枝、厳霜凌其葉、吾見其有花亦不舒暢矣。

しかるに狂風その枝を撼(ゆる)がし、厳霜その葉を凌ぎ、吾その花のまた舒暢せざるあるを見る。

しかしながら、狂うたような風がその枝を揺るがし、いてつく霜がその葉を弱らせるので、その美しい花はのびのびと咲いているのではないように、わしには見えるのう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

B   ところで、若いものたちは花や果実のようなものである。

如所種者牡丹、自然開花、所種者桃李、自然結実。

もし種(う)うるところのもの牡丹ならば、自然に花を開き、種うるところのもの桃李ならば、自然に実を結ばん。

植えたものがボタンの種なら、やがておのずと花も開こう。植えたものがモモやスモモだったら、やがておのずと実が結ばれよう。

しかし、植えたものが竹や蔓なら、どうしたって花を開いたり実を結んだりすることがあろうか。

雖培植終年、愈生厭悪。

培植終年すれども、いよいよ厭悪を生じん。

一年中かけて育ててやっても、どんどん(日陰を作りつるをはびこらせ)いやな状態を作り出すばかりであろう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「履園叢話」巻七より。

言っていることが少しづつ矛盾しているような気がしませんか。

 

表紙へ  次へ