平成23年10月20日(木)  目次へ  前回に戻る

 

今日は血圧の薬飲み忘れて出て行ったんです(←童子なのに高血圧なのでちゅ)。そして、夜になったらいよいよ咳も出てきましたし、寒気もしてきました。

明日出勤するのは無理だろうなあ、むふむふ。

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昨日の続き。

楊朱は得々としてしゃべりはじめた。

君見其牧羊者乎。

君、其(か)の羊を牧するものを見んか。

「ああ、王様。どうぞ、あの、羊飼いのことを考えてみてくださいませ。

百羊而群、使五尺童子荷箠而随之、欲東而東、欲西而西。

百羊にして群するに、五尺の童子をして箠(すい)を荷ないてこれに随わしむれば、東せんと欲すれば東し、西せんと欲すれば西す。

百頭のヒツジの群れの後ろから、身の丈五尺のこども一人に柔らかいムチを担がせてついて行かせるだけで、そのこどもが東に行かせようと思えば群れは東に行くし、西に行かせようと思えば西に行かせることができるのです」

「五尺の童子」とあります。秦以前の一尺は20センチ前後ですから、背丈1メートルの、五六歳のこどもである。

でも、今の幼稚園児に突然ヒツジを逐え、というても無理で、この子どもは物ごころついたころからヒツジ飼いをしている子どもでなければいけないでしょう。

「しかしながら、ですぞ、王様」

楊朱は続けた。

使堯牽一羊、舜荷箠而随之、則不能前。

堯をして一羊を牽かしめ、舜をして箠を荷ないてこれに随わしむれども、前(すす)むあたわざらん。

「いにしえの聖人皇帝・堯にわずか一頭のヒツジを引っ張らせる。さらに、堯の娘ムコで、その跡を継いだこれまた聖人皇帝の舜に、後ろからムチを持ってこれを追わせたとしても、ヒツジは思いどおりには前に進まないでありましょう」

聖人は天下を治めることは知っていても、一頭のヒツジを牧するコツを知らない。そんなことは皇帝は知らなくてもいいからです。

「また、わしは次のように聞いております。(王様は聞いたことがないのでしょうかな?)

呑舟之魚、不游枝流、鴻鵠高飛、不集汚池。

呑舟の魚は枝流に游ばず、鴻鵠は高飛して汚地に集わず、と。

船を飲みこむほどの巨大な魚は、大河の支流には入り込まない。おおとりは高く飛び、低地の池に降り立つことはない、という言葉を。

それらは高遠なものでありますからなあ。

黄鐘大呂不可従煩奏之舞。

黄鐘・大呂は煩奏の舞に従うべからず、と。

聖なる音階である黄鐘や大呂の旋律は、動きの急な舞には適切でない、という言葉もあります。

聖なる音階は、音がおおまかすぎますからなあ。

将治大者不治細、成大功者不成小、此之謂矣。

まさに大を治めんとする者は細を治めず、大功を成さんとする者は小を成さず、これ、これを謂うなり。

大いなるものを支配しようとするひとは、ちっぽけなものを支配しようとはしませぬ。大いなる成功を収めようとするひとは、ちっぽけな成功を得ようとはしない。―――この言葉は、こういうことを言うておるのですなあ」

だから、天下をてのひらの上でごろごろできる自分は一妻一妾をうまく治められなくてもおかしくないのである。

論理学的には「逆は真ではない」ので、誰も納得しませんが、楊朱は

「があっはっはっは」

と勝ち誇ったように大笑いした。

しかしながら、これに対します王の反応は、「列子」楊朱篇には記されておりません。

王さまも、その臣下たちも、おそらく、むすーとして、無言であったのだろう。

結局、楊朱は梁の國で就職できなかったことからも、雰囲気が悪かったのは明らかである。

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ということで、今回の講話からは、

@   えらいひとの前ではデカいことは言わないようにしよう。

という教訓と、

A   五尺の童子でも羊を自由に動かすことができるが、堯・舜にはできない。ただし、そのことによって堯・舜の価値は下がらない、

という寓言と、

B  呑舟の魚は枝流に游ばず、鴻鵠は高飛して汚地に集わず。

という有名な言葉(格言・成語)。

の三つも得ることができました。かなり効率のいい講話でしたねー。血圧薬のみ忘れで頭ふわふわしますからね、効率よくやって早く寝ないと・・・。

なお、昨日、「一妻一妾」をわかりやすくするため、「女房も愛人もいる」と訳しておきましたが、紀元前の時代の生活ですから、現代のイメージで男女関係を想像していては大間違いになります。ゲマインシャフトもゲゼルシャフトも知らない時代の人たちですからね。「生産共同体=家」の時代、「婚姻」は氏族と氏族の同盟を意味し、自由民が都市国家の中で軍務を分担していた時代の、財産権と祭祀権をより強く保有する「妻」とより弱い(完全に無い、ということではない)「妾」ですから、家が治まらない、といっても「妻」と「妾」が嫉妬して云々、という近世の家庭をイメージしていると大違いで、この場合の「治むるあたわず」とは妻・妾が氏族あるいは都市国家内での発言権の弱い「夫」を見限っている状態を言っていると理解していただくと適切なのではないかな?

 

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